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     第6次朝鮮通信使
   
     朝鮮通信使の編成

 1655年、朝鮮朝廷は、4代将軍・家綱の襲職を祝う第6次朝鮮通信使を派遣した。485人からなる大使節団で日光参詣も行われた。
 
 今回は、どのように朝鮮通信使は編成されたのか、その構成員について少し詳しく述べてみたい。

 朝鮮朝廷は、日本に朝鮮通信使を派遣するにあたって、外交使節の役目と文化使節の役目を同時に果たせる、優れた人物を選抜するのに毎回苦心したようである。

   旗手
          先頭を行く旗手隊

 使節員に選ばれれば帰国後に昇進の機会はあったが、明・清国へ派遣される外交使節団・燕行使より低くみられたため、使節員になって行くことを拒否する風潮があった。朝鮮国内には秀吉軍の侵略・惨劇のイメージが濃く残り、そのうえ荒海を渡る命懸けの旅だったため、最初の頃の使節団編成は難航したようである。

 朝鮮通信使一行が無事に日本往還を果たし、その回数を重ねるごとに、日本の事情が少しずつ分かるようになり、それに相応して約500人近い人材を選び朝鮮通信使を編成するようになった。
 
 どのような人材で編成されたのか、第6次朝鮮通信使を例に上げてみる。
 
 朝鮮朝廷が、もっとも気を使ったのはリーダー・正使の選抜で、正三品以上の堂上官の礼曹参議(外務次官クラス)から選んだ。のちに領議政(首相)に登用されるほどの人物があてられた。経験豊富な高級官僚、人望があり、風采も重視されたという。

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            正使

 正使の補佐役・副使は正三品堂下官から選ばれ、毎日のできごとを記録する従事官は五、六品弘文館校理官から選ばれた。正使、副使、従事官は三使と呼ばれ科挙の試験に合格した文官である。それぞれ親族を専属ボディーガードとして同伴させた。

   副使
            副使

 その次に、重要な役割を果たすことになる訳官、日本語(倭語)通訳ができる上々官三名と漢文で筆談ができる製述官1名が選抜された。 
 これらの人選は、門地に関わらず文才のある実力者が選ばれ、製述官は文才の学士で文章の起草、筆談が堪能な人物であった。
 
 その他に、良医(三使の医師)、医員(三使以外の医師)、軍官(護衛官)、
 書記(三使・製述官の補佐)、写字官(書道家)、画員(絵描き)、典学(楽士)、吹手(ラッパ吹き)、馬上才(馬上曲芸師)、

   楽隊
            楽隊
 
 刀尺(料理人)、旗手(旗もち)、船将(船長)、沙工(船頭)、水夫(船こぎ)、 小童(通訳補佐・事務処理)、双子(三使の身辺世話)、小通事(日本語を学ぶ学生)等々、50余の職種に及んだ。
 「一芸を以って国に名のある者ことごとく従えて行く」と言われるほど全国から選りすぐった者たちで編成された。
 まさに、一国の行政システムを凝縮して移動するような多彩な編成であった。

 朝鮮通信使一行は、対馬藩士800人が先導し、前後の警護を命じられた大名の軍勢(藩士)と休憩・昼食宿泊の接待役、さらに駕籠・輿・馬など世話する者などさまざまな随伴者など総勢3千人の大行列となった。

   護衛藩士
          護衛藩士

 異国文化に触れる初めての機会であり、朝鮮通信使が通過する沿道は行列を見物する人々であふれ、熱狂的な歓迎であったことがうかがい知れる。

 これだけの大規模な使節団を送る朝鮮側も、それを受け入れ接待する日本側も、その財政負担は莫大なものであった。実際にどれだけの費用がかかったのか、具体的に調べて次の機会に記したい。

 ただ莫大な費用の大部分は日・朝双方の民衆に転嫁されたことだけははっきりしている。

 6次朝鮮通信使の日光参詣は三回目であったが、以後、使節団の日光東照宮への参詣は行われなかった。背景に財政問題があったとされている。
    つづく
2018.10.12 朝鮮通信使25
     林羅山と朝鮮通信使

 林羅山(1583~1657)は、京都に生まれ、13歳のとき臨済宗の建仁寺に入って儒学と仏教を学んだ.

  建仁寺2
         建仁寺 京都

 2年後、僧になるのを嫌って家に帰り、もっぱら儒学に没頭し仏教を排撃したといわれている。

 羅山は、22歳の時、吉田与一(角倉了以の子)の紹介で、藤原惺窩(せいか)に入門し、惺窩の推薦で徳川幕府の儒官に登用された。

 師の藤原惺窩が、日本儒学の先駆をつとめながら生涯を市井の学者にとどまったのに対し、羅山は、生涯を儒官として幕府に仕えた。

 羅山は、家康・秀忠・家光・家綱の4代将軍の侍講を勤め、江戸時代の儒学文化の基礎を築いた。
 
 1630年、上野に孔子廟を建てて孔子を祀り儒学に力を注いだ。孔子廟は、後に神田の昌平坂に移されて幕府直轄の昌平坂学問所・湯島聖堂(お茶の水付近)となった。

  お茶の水
       昌平坂学問所 明治時代絵図

 羅山の弟子たちは各藩に登用され儒官として活躍した。
 
 また羅山は、幕府の外交文書を司り、当初から対朝鮮外交に深くかかわり、来日した通信使使節たちと筆談唱和した。

 彼は、1607年の第1次から1655年の6次朝鮮通信使往還までの
長い間、日本側の外交官、儒学者として、日本にやってきた通信使の正使・副使・述事官3使らを応接、筆談した唯一の人であった。
 
 羅山が、通信使節らとどのような筆談をしたのか、来日した使節が記録した「使行録」から探ってみる。

 最初の頃、林羅山は朝鮮通信使の正使、副使、叙述官、訳官(通訳)らと直接面接できる立場を利用して、朝鮮の儒学・朱子学について虚心に学ぼうとしたようである。

     林羅山1
           林羅山
 
 林羅山は、秀吉の 朝鮮侵略戦争後、徳川幕府との外交交渉のため初めて朝鮮からやってきた僧・松雲大師の客館を訪れ筆談した。松雲大師は、儒教を学ぶ学徒としての羅山の漢学の優秀さを認めたという。

 羅山は、3次の通信使往来までは、儒官として使節たちから儒学を学ぶ姿勢を堅持していたが、柳川調興側に味方して敗北した柳川一件を契機に、外交官としての立場から、通信使一行に対して厳しく当たるようにようになった。

 使節側は、羅山を「外交文書を司る僧侶」程度に軽くあしらっていたようであるが、柳川一件以後は、彼を幕府内の対朝鮮批判者の代表格とみなすようになっていた。
 当時の朝鮮国の文人や学者らは、日本にたいして武力では劣るが、学問・文化の面で絶対的な優越感をもっていた。

 そのため、使節たちの先入観と偏見によって羅山に対する評価は厳しいものがあった。

 しかし、若き日から朝鮮使節に関心を抱き儒学に没頭してきた羅山としては、同じ儒学を崇める朝鮮の使節には人間的な親しみ感じていた。

 羅山は、江戸本誓寺に滞在する4次使節団の副使・金世濂(キムセリョム)を訪ね筆談をかわした。
 
 金世濂は、「この日道春(羅山)が至り、経史のなかから難解なところ60余条を引き出して質問してきた。文辞が燦然として観るべきものがあり」と述べ、羅山の儒教談義には禅仏教の色彩多く残っていることを指摘した。
 
 林羅山は、「使臣の言はわたくしにとって薬石の効がある。わが国の学問は禅から出たから、このような患があるゆえんである。孔子の学問に帰一するためには何を修めるべきか。」と答え、彼の学問・儒学に対する真摯な姿勢は、柳川一件後も変わっていなかった。

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      正使            副使

 羅山が、朝鮮の儒教界で展開されていた「性理学論争」や朱子学の諸問題の内容も十分に理解していることを知った金世濂は、彼の儒学を禅仏教の要素があるにせよ高い水準のものであると認め評価するようになった。
 
 帰国後、復命の席で、正使の任統は、林羅山を「文理がなっていないし、詩は最も好みません」と答えたが、

 副使の金世濂は、「日本では林羅山の文章が最もできがよかった・・彼らを軽蔑すべきではありません」〈金世簾著『海搓録』)と答えたという。

  聖堂
      昌平坂学問所・湯島聖堂 
 
 国交を開き、安定化するためには、相互の先入観や偏見を克服しなければならない。お互いの先入観や偏見を克服するためには、やはり人と人の深い交流が大切であることを教えているようである。
       第5次朝鮮通信使往還 
    日光東照宮における朝鮮式祭祀

 17世紀中葉、清を中心とする新たな東アジアの国際秩序の変化に対応するため、朝鮮は、南辺の日本との交隣関係の維持・強化する必要に迫られていた。

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     18世紀 東アジア(清・朝鮮・日本)
 
 1637年, 日本では島原の乱を契機に、この一揆の原因を誘発したとして、ポルトガル貿易船の来航を禁じ、1641年にはオランダ商館を長崎の出島に移し、貿易とともにキリスト教を統制した。いわゆる「鎖国」であった。
 
 3代将軍・家光は、徳川幕府の権威を高め、体制をより強固にするため、外交使節団・朝鮮通信使を招待し利用する必要があった。

 このような時代背景の下に第5次朝鮮通信使の往還があった。

 1643年、朝鮮は、前例がない将軍の世継ぎ誕生(家綱)を祝うとの名目で、正使、副使、述事官の三使をはじめ477人の大規模な通信使を日本に派遣した。
 
 使節団は盛夏の7月、江戸城で国書伝礼式を終え、日光東照宮に向かった。
  4次使節団の際は、「日光遊覧」をかたくなに拒否したが、幕府の強い要請と対馬藩主・宗義成の必死の懇願により、やむを得ず寒い冬の日光東照宮を訪れたのであった。

 5回目の使節団は、4次の使節団とはまったく違い、日光東照宮参拝に積極的であった。
 そればかりでなく、使節団は、朝鮮国王の親筆の祭文、銅鏡、香炉、燭台、仏具など祭祀に用いる備具を準備して、朝鮮式の祭祀・祭事(チェーサ)まで行ったのである。
  
 唐門拝殿
      東照宮 唐門と拝殿
 
  祭祀は、拝殿と唐門の間に設けられた仮拝殿で行われ、神酒(みき)と高盛(たかもり)朝鮮菓子20種類が正式な礼法で供えられた。朝鮮菓子は一足先に日光入りした朝鮮職人により作られていた。

 祭事1
   祭祀に供える食べ物 (現代風)
 
 正使の尹順之ら三使が着座すると、雅楽の奏楽が始まった。正使たちが焼香、拝礼し読祝官が国王の祭文を高らかに朝鮮語で読み上げた。
 
 祭文と供物の絹や幣帛(へいはく)は、朝鮮では祭礼後焼くか埋められるが、家光たっての希望で、祭文は封をして江戸に持ち帰り、幣帛は東照宮の宝物として残された。

 三代将軍・家光は、将軍就任中に3度の朝鮮通信使を招待し、2度の日光招待を実現させた。彼はその間、柳川一件を裁きその後遺症を克服して、朝鮮通信使を招待して善隣友好の関係を前進させたが、1652年、47才の若さで江戸城で逝去した。

  1655年、第6次朝鮮通信使は、家光を祀る大猷院霊廟前で朝鮮式祭祀を行った。そのときの朝鮮国王親筆の祭文が残されている。

 その内容は、「家光は家康の法度をよく守り孝道の思いが厚い。朝鮮国とは代々にわたって親睦を深めてきた」というもの。

 陽明門鐘
    東照宮 陽明門前の朝鮮鐘 

 日朝両国の利害関係は、お互いの望むことを実行してすることによって信頼を深め、善隣友好関係を築いていった。

 朝鮮国王の親筆の祭文は、「通信の国」朝鮮との善隣友好の歴史を物語る歴史的文化財として今に伝わっている。

 祭事2
    墓の前で行われる祭事の一場面 

 韓国では、一般家庭でお盆、正月、秋夕に先祖を祀る行事として祭祀・祭事が今も行われている。
         朝鮮燕行使

   景福宮2
           景福宮 ソウル

 江戸時代、朝鮮は日本に通信使を送っていたが、一方で清国の北京(燕京)には燕行使(ヨネンサ)を派遣することになった。
 
 燕行使とは、朝鮮国の漢城(ソウル)と清国の都・燕京(北京)を往来する朝貢使節団のことである。

 1636年、女真族の後金=清の太宗は、10万の騎馬軍団率いて「崇明排清」(明を慕い清を嫌う)態度をとりつづける朝鮮に侵攻した。
 朝鮮国王・仁祖は、臣僚たち1万2千と漢江南の南漢山城に籠城(50日)して戦ったが、力尽き太宗の軍門に降だり、屈辱の城下の盟・臣従を誓わされ、王子二人は瀋陽に連行された。(丙子胡乱)
 
 第4次朝鮮通信使一行は、帰国直前の対馬おいて、釜山からの急報でその消息を知らされた。使節団全員、一晩中泣き明かしたという。

 1644年、清軍が北京に入城して、凡そ300年続いた明が滅び、中国王朝が交替した。

 1592年、豊臣秀吉軍の朝鮮侵略戦争以来、明・清の王朝交代に至る半世紀余りの間、東アジアは激動期であった。

 朝鮮は、この激動の試練をのり越えて、日本と交隣外交、清と事大外交を確立したのであった。

 朝鮮王が、清皇帝に臣礼をとる燕行使(ヨンヘンサ)の正使は、日本への通信使より位の高い者が当てられた。
 
 毎年、4回の燕行使と臨時送使派遣の儀礼に、清からの「回賜」の形式による定期的な一種の民間貿易が行われた。

 頻繁な燕行使のソウル=北京の陸路往来は、次第に朝鮮・清両国間の人的および物的交流の太いパイプとなっていった。

  鴨緑江
    鴨緑江 朝鮮ー中国の国境を流れる

  ソウルを出発した燕行使は、義州で鴨緑江を超え鳳凰城柵門で入国手続きをした。

  山海関
       万里の長城 山海関付近

 そこからさらに北上し盛京(瀋陽)に至り、万里の長城の東端にある山海関の方向に南下して、広寧、山海関、蘇州、通州を経て北京に着いた。往復にほぼ半年の行程である。

  天安門
        天安門  北京
 
 燕行使の往来には、民間人の湾商(マンサン・義州商人)、柳商(ユサン・平壌商人)、松商(ソンサン・開城商人)などが同行して、鳳凰城柵門では両国商人の国境貿易が開かれた。
 国境貿易は鳳凰城のほかに、豆満江沿岸で行われた会寧(ヘリョン)開市、慶源(キョンウオン)開市などがあった。

 北京には朝鮮のほか、西域、東南アジアからの珍しい朝貢品が集散し、朝鮮にとって世界に開かれた窓口となっていた。

 朝鮮が漢訳西洋書や世界地図を入手したのも、北京に往来した燕行使によるものであったと言われる。

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    朝鮮燕行使 ソウルー北京間ルート 

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       朝鮮通信使 ソウルー江戸間ルート

 ソウルから清国の北京に通じる燕行使の道と日本の江戸に通じる通信使の道は、相互間の人的および物的交流の道となり、朝鮮半島を挟んで清国と日本両国の関係を安定化させる道程となっていた。

 朝鮮の清国との事大外交、日本との交隣外交は、近代に至るまで東アジア三国の平和維持に寄与したと言えるのではなかろうか。
   つづく 

        今切川事件

  浜名湖
          浜名湖の風景

 この事件は、第4次朝鮮通信使の帰国の途上で起きた。
 
使節らが、浜名湖付近の湖口・今切川(金絶河)川の浅瀬に銀子(お金)を投げ捨てるという事件を起こしたのである。

  浜松市
       浜名湖付近の地図
 
 なぜ、お金を投げ捨てたのか?

 朝鮮通信使・使節団が、江戸における任務を終えたとき、宿泊所の本誓寺には幕府から振る舞われた、米530俵をはじめ酒、餅、醤油等の食糧・食材が大量に余った。
 それを雑用してくれた人々に、全て分け与えて江戸を出発したのであるが、使節団一行が三島に着いたころ、江戸から銀子千両(推定約1億円)が送られて来た。
 接待役責任者であった安藤重長から「使臣たちが置いていった米のことを関白(将軍家光)に申し上げたところ、関白は銀子に換えて追送するように指示があった」ことを伝えてきた。

 儒教国の両班(官僚貴族)出身の使節たちにとって、金や財・物欲がないという体面が大事なことであるため、銀子をそのまま受け取って帰るわけにはいかなかった。
 また、朝鮮通信使は、聘礼外交を前提としたので、使節員がもらうお礼の品とお土産も形式にとどめたいた。
 
 ところが、日本側の礼は、財・金品でもって表す慣習があり、使節らはその都度断っていたのであった。

 しかし、この時はわざわざ金品に換えて贈ってくれた幕府の善意を考えると、その銀子を送り返すわけにもゆかず、また随行員に配れば銀子を受けとったことになるし、対馬藩主・宗義成に受け取るように勧めたが、義成は幕府のとがめを恐れ受け取らなかった。

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  行列1
       朝鮮通信使行列図

 使節たちは、この銀子をどうすべきか悩み協議をかさねた結果、浜名湖の湖口付近の今切川に捨てることにしたのであった。
 
 使節たちは、川の浅瀬に銀子を捨てるとき、対馬人が見ていることを感じていた。
 対馬藩士たちは、川の中に投げた銀子をそのままにして素通りすることが出来ず、銀子を拾い上げ対馬まで運んだ。

 使節たちは、このようにすれば幕府の面目もたち、自分たちの体面も損なわず、通信使往還で苦労した対馬人の利益にもなる。3者が満足のいく解決法だと考えたのであろう。
  
 この時代の一種の外交的パフォーマンスであったと思われる。
 
 そして、対馬に到着したとき、銀子千両をめぐって、使節団と対馬側の間で、受けとれ、受けとれないの押し問答を繰り返し、結局、折半することになった。

 使節団がソウルに帰り、復命の報告を受けた朝廷では、使節団の行為に賛否両論があったが、16代朝鮮王・仁祖が、「その金を北方の防衛費に使うように」と王命を下し、事件は一件落着したのであった。 

   仁祖王
       韓国ドラマに登場した仁祖王

 その後、この事件は朝鮮通信使の良い前例となり、使節が今切川を渡るごとに、この事件を伝説のごとく「今切川」・「金絶河」と名ずけて自慢したという。
 「今切」も「金絶」も朝鮮語で「クムジョル」と読み、お金と縁を切るという意味。

 朝鮮通信使の使節たちにとって、この事件は朝鮮側の礼と自尊心を日本にて宣揚した好例であったので、後世の使節たちに伝説のように伝えられたと思われる。

 現代からみれば、お金を捨てるという、実に稚拙で滑稽な行為と思われる。

 しかし、汚職事件や詐欺事件など不正が横行している今日の社会状況を考えてみると、筆者には、江戸時代の使節たちが起こした稚拙な事件が、大義名分を貫き、清廉潔白を証明するための潔い行為として見えるのが不思議である。 

   つづく