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     朝鮮貿易の盛況・対馬の繁栄

 17世紀前半、中国大陸は明・清の交代期で、東アジアは混乱状態がつづいたが、後半になると安定をとりもどし、日朝間もこれといった特別な問題はなく平和に推移した。

  対馬1
       日朝交流の仲介の地・対馬

 東アジアの安定は、財政を交易に依存する対馬にとって、朝鮮と日本間の仲介貿易を拡大する好機となった。
 
 この時期の1657年、対馬藩主・宗義成が亡くなり、義真(よしざね1639~1702)の治世となった。
 19歳で島主となった義真は、藩政を改革し、朝鮮貿易(倭館貿易)に力を注いだ。

  宗義真
       対馬3代藩主 宗義真 
 
 対馬藩は、日朝間の外交、交易の窓口である釜山の倭館が狭くて不便であったため、以前からその移転を朝鮮側にくりかえし要望していた。
 1678年、ついに朝鮮朝廷は、要望を受け入れ豆毛浦から草梁に移転した。新しい倭館の敷地10万坪は、長崎出島(中国、オランダ貿易)の25倍の広さであった。倭館には対馬から、藩士、役人、商人、実務担当者ら常時500~1000人が滞在していたという。(参照;朝鮮通信使9)

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         釜山草梁倭館図
 
 対馬藩の朝鮮貿易(倭館貿易)には公貿易と私貿易があり、他に外交儀礼にしたがって行われる物品の贈答があった。

 公貿易は、日本から銀、銅、胡椒、丹木(染料)、煙草などを輸出された。対馬藩は、日本になかった胡椒、丹木を幕府の優遇処置により長崎から仕入れた。
 
 朝鮮側は木綿でこれを買い上げる方式で行われた。江戸時代初期、日本では木綿の生産ができなかったので朝鮮の木綿は珍重された。

 私貿易は、倭館の開市大庁(かいいちだいちょう)で、毎月3と8のつく日、つまり月8回、朝鮮商人と対馬の商人、役人、使者らとの間で個人取り引きで行われた。
 対馬藩は、この私貿易を組織的に取りくんだという。
 
 対馬の朝鮮貿易は、「人参貿易」といわれるほど朝鮮人参は珍重品であった。朝鮮人参は高麗人参とも呼ばれ、万能薬として大評判であった。
 当時の人参はすべて野生のもので、その輸入量は年によって変動があった。

  人参
        朝鮮(高麗)人参
 
 朝鮮人参は、おもに江戸で屋敷売、問屋売、小売の方法で販売されたが、大半は、座売りの方法で対馬藩による専売であった。その後京都、大阪でも販売されるようになった。
 
 人参とともに、対馬が収益をあげたのは生糸、絹であった。輸入された生糸、絹は京都河原町通三条辺りにあった対馬藩邸に運ばれた。藩邸を拠点に、生糸、絹は西陣の織物職人の手によって高級な絹織物に仕立てられ大阪、江戸の富裕層に売られた。
 
 人参、生糸、絹仕入れの代価は銀であった。対馬藩は、この輸出銀を京都で調達し、それを淀から船で大阪、瀬戸内海を軽由して対馬に運び、ついで「後銀船」という専用船で倭館に運んだ。
 
 朝鮮の商人は、倭館の大開市で生糸の代価として銀を手に入れ、燕行使(北京・清朝への朝貢使)に随行し、銀を元手に生糸、絹を仕入れていた。 
 こうして、日本で生産された大量の銀が朝鮮を経由して中国に輸出された。

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       燕行使ルート(ソウルー北京)

 倭館を拠点にして、対馬商人と朝鮮商人が京都ー対馬ー倭館(釜山)ーソウルー北京の間を、人参、生糸・絹と銀を運びながら頻繁に往来したのであった。

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     朝鮮通信使(ソウルー対馬ー江戸)
 
 このルートは、大陸を横断する絹の道・「シルクロード」と呼ばれているが、京都から対馬、釜山へ海を渡り、朝鮮半島を経て北京まで銀の道・「シルバーロード」が形成されていたとも言えるだろう。

 宗義真は、対朝鮮貿易の好況を背景に藩の政治改革を断行し、職制整備、府中(厳原)の道路、港の整備、農地整備、銀山開発など促進した。この時期、浅茅湾の奥と対馬東海岸を結ぶ水路・大船越瀬戸が初めて開削された。
 
 義真は、木下順庵門下の雨森芳洲、陶山純翁など学者を招聘し、人材養成の藩校を設置した。また対馬や宗家の歴史に関する書物を編纂するなど文教政策にもいそしんだと言う。

 3具足
   朝鮮王から贈られた三具足 宗家所蔵
 
 そして、幕府によって対馬藩は、表高2万石格から10万石格の国持大名に準じる格式で扱れるようになった。

 17世紀後半~18世紀前半、対馬藩は、釜山倭館を拠点とする朝鮮貿易によって莫大な利益を上げ繁栄した。まさに対馬の黄金時代であった。
         つづく
 
      洪浩然の願い
 
  洪浩然(ホン・ホヨン・1582~1657)は、書道家として江戸時代に名を残した1人である。
 洪浩然は、豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争の際、鍋島直茂(佐賀藩祖)軍に捕まり、佐賀城下に連れられてきた。
  
 浩然は、生涯帰郷が許されず、1657年、藩主、鍋島勝茂の死去に際し割腹殉死した。享年76歳であった。
  
 21世紀に入って、子孫たちが洪浩然の故郷を訪ね、洪家の後裔たちと会合するというドラマのような出来事があった。
  
 その過程を順を追って記してみる。

  智異山
     名山 智異山 晋州市北西
 
 洪浩然は、現在の慶尚南道晋州市の北西智異山の麓・山清にて、地方官吏の家系,4兄弟の3男として生まれた。
 
 1593年、豊臣秀吉侵略軍の朝鮮南端の晋州城を包囲攻撃により、朝鮮軍が敗れ、多数の朝鮮軍民が犠牲になった。洪一家の長男は四男を背負って逃げたが、二男は行方不明、三男の浩然は鍋島直茂軍に捕まり日本に連れられてきた。
 
 12歳の少年であった洪浩然は、おそらく両親の安否さえわからず、故郷を失い、自らの生命の危険を感じながら、異国での不安な生活を強いられた。
 
 しかし、佐賀藩主鍋島直茂・勝茂父子は、浩然の才能を目にとめ、武士の待遇で厚遇したと言われている。
 藩主の信頼をえた洪浩然は、数年間、京都五山で学問を修め、漢詩と書の才能を開花させた。そして俸禄100石と学問科5人扶持を拝領されることになった。
 
 浩然は、藩主・鍋島勝茂の右筆、つまり藩主の書状を代筆する書記官、書家、儒学者として活躍した。 

  扁額2
     洪浩然書 頂法寺扁額 京都市
 
 晩年、祖国への帰国を願い出て許しをもらい、帰国の途についたが船に乗る寸前、藩主・勝茂の「浩然がいなくなるとさみしく心苦しい」との言葉がとどき、唐津から呼び戻どされた。
 
 その後浩然は、俸禄を自ら返上し白米五十俵のみの拝領を願い出た。武士階級よりも、町人として書家の道を選んだという。
 
 浩然の書とされる多くの漢詩や筆書が残され、京都頂法寺、福岡県英彦山神宮、佐賀県徳善寺,弥念寺等の扁額に今でもそれを見ることができる。
 浩然の書体は独特で、力強く大きくなる独特の書風から「こぶ浩然」と呼ばれたという。

 1657年、勝茂が江戸で没した。その知らせを聞いた浩然は、菩提寺の阿弥陀寺で切腹殉死し、異国人ながら立派な葉隠武士(佐賀藩の武士道)として称讃されたという。

  阿弥陀寺
    洪浩然の墓 阿弥陀寺 佐賀市

 殉死の際、浩然は子の洪安實(六郎兵衛)に「忍 忍則心之宝 不忍身之殃」(忍は心の宝、忍ばざるは身のわざわい)の遺書を残した。
 
 囚われてきた不遇、別れた家族への思い、望郷の念など苦しみ忍従を強いられた境遇を「忍」の一字に込めたものと思われる。

 それにしても、親兄弟から引き離され、故郷から強引に連れられてきた浩然が、藩主の恩義に報いるためとはいえ、なぜ殉死しなければならなかったのか?
 それを知る術はない。
 
 筆者の思うところ、浩然にとって藩主は恩人であり、またそれ以上に唯一の拠りどころであった。拠りどころを失った孤独感・絶望感にさいなまれた浩然は、少年のころ過した故郷の父母兄弟を思い出し望郷の念に駈られた。高齢となった自分は、もはや故国に帰ることは難しい。しかしながら、せめて洪家の存続と子孫らは必ずや故郷に帰して欲しいと、懇切な願いが秘められた殉死であったのではなかろうか?

 洪浩然の死後、彼の子孫は代々洪家の姓を守りつづけた。

 洪家第12代当主洪悦郎(よ しろう)は、東京大学を卒業後、東大助教授、北海道大学教授、日本建築学会副会長を務めた。紫綬褒章、勲二等瑞宝章を授与された。
 2009年、悦郎は、85歳で亡くなり洪家の代は途切れることになった。悦郎の娘二人は他家へ嫁いでいた。そのため悦郎は生前、代々受け継いで きた屏風、書などの遺品を佐賀県立名護屋城博物館 に寄贈したという。
 
 名護屋城博物館と交流のある韓国晋州博物館 の調査により、浩然の兄弟の子孫が現在も山清で暮 らしていることが明らかになった。そ こには「南陽洪氏茂朱府使公花樹会」と称する親族の集 まりが存在していた。

 2014年、日本で洪浩 然の子孫・縁者30名ほどが集まり、「洪 浩然に連なる会」が発足した。会の主な目的は阿弥陀寺の墓の維持と、ばらばらだった子孫間の親睦を図ることであった。

 「洪浩然に連なる会」と「南陽洪氏茂朱府使公花樹会」と交流の仲介の役割を果たしたのは、佐賀県立名護屋城博物館と韓国晋州博物館の職員たちの緻密な追跡調査と努力であった。

 奈良学園大学学長・辻毅一郎氏は「洪浩然に連なる会」のメンバーの一人である。氏の母の実家の父(毅一郎の祖父)は第11代洪純 一、その長男の洪悦郎(毅一郎氏の叔父)が第12代の当主にあたる。

 辻毅一郎氏は、日韓の洪家親族たちの交流の経過を次のように述べている。

 「連なる会の活動の一つはこの南陽洪氏との交流で ある。先ずは日本側が晋州博物館と山清を訪問、翌 年韓国側が来日して名護屋城博物館を訪問、そして 平成26年4月(2016年)には筆者も含め連なる会の会員10数 人が韓国を訪問した。先方は20数人がバスを仕立 てて釜山空港まで出迎え、我々一行は大変な歓迎を 受けた。旅のハイライトは、南陽洪氏が山清に新た に建設した浩然の記念碑の除幕式に参列することで あった。この碑には筆を持った浩然の絵と、くだん の揮毫とが彫られている。南陽洪氏から 見ると、先祖が連行されて420年、ようやく里帰り を果たした、ということになるのである」『生産と技術』第67巻 第2号(2015)

 韓国の地元紙は「南北離散家族の再会のように激しい抱擁はなかったが、静謐かつ感動に満ちた家族の出会い…」などと報じた。
 
 韓国では、洪 浩然を主人公とした物語の本が出版され、ビデオも制作されたという。

 2017年、「没後350年 よみがえる洪浩然の書」が、佐賀県立博物館・美術館で開催された。

  佐賀市
     洪浩然書 弥稔寺扁額 佐賀市
 
 洪浩然の故郷に帰りたいという切実な願いは、生涯叶えられなかった。
 420年後の21世紀・現代に至って、子孫らが祖国に帰り、故郷の人びとと対面をはたし、また朝鮮と日本を自由に往来するという奇跡的な出来事が起きたのである。
 まさに大長編ドラマを見ているような現実・事実である。

  阿弥陀寺
     洪浩然が眠る阿弥陀寺 佐賀市

 1人の人間の一生は短い、420年はとてつもない長い歳月を費やしたが、ようやく洪浩然は安らか眠ることが出来るようになったであろう!
 
 「洪浩然の願い」の勉強は、改めて友好親善の文化交流、人の交流の大切さを再認識することになった。
   
      おたあジュリア

  十字架2
    おたあジュリアの十字架 神津島
  
 2012年、NHKのテレビ番組「歴史ヒストリア」・『おたあジュリア』が放映され、2016年、劇団わらび座がミュージカル「ジュリアおたあ」の公演を行ったという。
 そして、おたあジュリアを主人公にした小説や漫画も何冊か発行されているようである。
 
 このようなことから、おたあジュリアについて一般的には知られているように思われる。

 筆者は、これまで、おたあジュリアについては関心外であったため、テレビを見ることも本を読むこともなかった。

 今回、朝鮮通信使のブログ記事作成のため調査・勉強する過程で、おたあジュリアは朝鮮から連れてこられ、そしてその後、数奇な運命を強いられたことを知ることになった。

 1592年、キリシタン大名・小西行長は、豊臣秀吉の侵略軍先鋒隊として朝鮮に上陸、平壌を攻め落としたとき、親を失った6歳の少女を保護し連れ帰った。
 
 朝鮮朝の両班(支配階級)の娘と思われるが、生年や、両親、家系、名前などすべて不明のまま肥後(熊本)宇土に連れられてきたのであった。
 
 キリスト教徒の小西夫妻は、少女に「おたあ」と名を付け、さらに洗礼を受けさせ「ジュリア」と洗礼名を与えた。
 
 小西家は元来、薬種業を営む商人であったことから、おたあに薬草の知識を習得させたと言われている。

 とくに行長夫人ジェスタ(菊姫)の教育のもと、おたわは高い教養と人を惹きつける魅力を兼ね備えた美しい女性へと成長した。
 おたあは、小西家でのわずかな期間、平穏な日々を過ごしたと思われる。しかし、おたあの平穏な日々は長くは続かなかった。

 1600年、関ヶ原の戦いで西軍についた小西行長は、東軍に敗れて捕えられた。自害が禁じられているキリスト教徒の行長は、敗軍の将として処刑され、小西家は没落した。

 関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、おたあの才気と魅力を見初め、駿府城の大奥に召し上げ、侍女として寵愛した。
 
 ところがおたあは、キリスト教の信仰を捨てよとの要求を拒否しつづけただけでなく、家康の正式な側室への抜擢にも難色を示した。
 ジュリアは、用事を作っては城を抜け出し貧しい人々を救うため働き、夜になると聖書を読み、他の侍女や家臣たちをキリスト教信仰に導いたと言われている。

 家康は、おたあを気にいって正式な側室として迎えたいと執着したが、キリスト教徒のおたあを側室にする事はできなかった。

 民を支配する徳川幕府にとって、万民の平等を唱えるキリスト教は相いれないものであり、おたあの活動は許しがたいものとして次第に圧力を加え、ついに1612年、キリスト禁教令によっておたあを伊豆大島へと流罪追放した。

  ジュリア1
       おたあジュリアの流罪地

 その後も、家康のおたあに対する執着は続いた。信仰を捨て戻ってくるように、赦免と引換えに家康への恭順の説得が続いたが、その度におたあは殉教の決意で拒み続けた。そのため、さらに遠島の新島、神津島へと流罪追放されたのであった。
  
 おたあは、どこの地においても熱心に信仰生活を守り、見捨てられた弱者や病人の保護や、自暴自棄になった若い流人への感化など、島民の日常生活に献身的に尽くしたと伝えられている。
 新島で駿府時代の侍女仲間と再会して、一種の修道生活に入ったことなども言い伝えられている。

 ジュリアは、流刑地においても人々に慕われる魅力的な女性であり続けたとされ、それを証明するかのように島にはおたあのものとされる供養塔が残っている。

  おたあの墓
      おたあジュリアの供養塔

 ジュリアは、神津島に流刑となって4年後に死んだという説と、40年後に死んだという説がある。

 1622年2月15日付「日本発信」のフランシスコ・パチェコ神父への書簡に、おたあは神津島を出て大坂に移住して神父の援助を受けている旨の文書があり、のちに長崎に移ったと記されている。
 
 その後の消息および最期については不明であったが、1950年代に神津島の郷土史家・山下彦一郎が、島にある由来不明の供養塔がおたあの墓であると主張したことから、神津島で没したとする説が浮上した。

 おたあは、いつ生れ、いつ何処で亡くなったか不明のままである。

 ただ、おたあジュリアは、戦争と権力者によって翻弄されつづけた数奇な生涯・一生であったという史実だけが残されている。
 
  ジュリア祭
    おたあ祭りに掲げられたジュリア肖像画

 現在、神津島では毎年5月(1972年から)、日韓のクリスチャンを中心としておたあの慰霊祭(おたあ祭)が行なわている。
       李真栄・梅渓父子

 1655年、江戸城において4代将軍・徳川家綱の襲職を祝う第6次朝鮮通信使の国書伝令式が行われた後、水戸の徳川光圀ら御三家が主催する饗宴が開かれた。
 
 この席に、紀伊藩主・徳川頼宣が若い侍講・李梅渓(ばいけい)を連れてきた。

  和歌山2
      李真栄・梅渓が仕えた和歌山城

 梅渓は、朝鮮通信使三使に向って、父・李真栄の略歴を述べながら「故国のことや祖先のことが知りたい調べてほしい」と涙ながらに切々と訴えた。その時の様子を従事官・南龍翼(ナムリョンイク)が記録『扶桑録』に残した。
 
 梅渓の父・李真栄は、秀吉軍の朝鮮侵略(1592)の際、朝鮮義兵として戦い、捕られ捕虜になり、1593年15歳のとき日本に連行されてきた。
  
 李真栄は、連行されてから5年間を大阪の農家で働かされ、その後紀州の商人・西右衛門に売られた。 そこで偶然に出会った朝鮮人の西誉のすすめで海善寺に入り仏教を修学するが、朝鮮で学んだ儒学との隔たりが大きく、1605年、再び大阪にもどり儒学の塾を開いたと言う。
 
1614年、大阪冬の陣の戦乱を避けて再び和歌山へもどり、海善寺近隣の久保町で私塾を開いた。1617年、日本人女性と結婚して梅渓が誕生した。 
 
 1619年、徳川頼宣が紀州に入国して藩政に人材を求め、李真栄を30石で侍講として召し抱えた。真栄は、「李」の姓を名乗りつづけ、儒学者として藩士の教育に献身し、1633年63才で他界した。

  海善寺
        海善寺 和歌山市
 
 真栄の生存中、4次の朝鮮通信使が日本を往来して、連行された朝鮮人を帰国させる刷還事業が幕府の協力のもとに行われた。とくに1624年の4次朝鮮通信使往来のとき、真栄は徳川頼宣の紀州藩の侍講であったことから、帰国の機会があったと思われるが、なぜか真栄は名乗り出なかったようである。
 
 李真栄は、息子の梅渓に幼い頃から17歳になるまで儒学を教えたが、朝鮮から連行されてきた経緯や故郷、祖先ことを伝えず逝ったのであった。

 朝鮮通信使は、梅渓の頼みを聞き帰国後、李真栄ついて調査をし、その結果は次の7次朝鮮通信使(1682年)によって伝えられた。真栄の祖先は李公済、故郷は慶尚南道霊山であった。この年に梅渓は亡くなった。

 李梅渓は、17才で真栄の家督を相続したのち、藩の儒官・永田善斎に弟子入りし儒者となった。また京都で儒学を修業し、藩主頼宣の子・光貞にも学問を教えたと言う。

  墓と碑
    李真栄・梅渓の墓   父子顕彰碑

 1660年の頃に、頼宣に命じられ藩訓「父母状」を作成した。「父母状」とは、農民に向けた教訓状で、1)父母に孝行のこと、2)法度を守ること、3)へりくだり、おごらざること、4)面々の家職を勤め、正業を本とすること、などの内容が書かれている。

 1670年に紀州藩内に布告された「父母状」は、その後の紀州藩の教育理念といわれ、江戸時代における紀州藩の民衆生活の規範とされた。
 
 梅渓は、徳川家の「年譜」の編纂にも携わり、30年がかりで「徳川創業記」10巻を完成して幕府に献上した。その功績により知行300石に加増された。
 後に、葛城山麓の梅原村(和歌山市梅原)を与えられ、この地名から梅渓と称したという。

 李梅渓は、日本の儒学の8賢人の一人に数えられまで名声を博した。

 また、熊野へ行き王子社や古跡の調査をしたり、友ヶ島の額や和歌浦碑文を書いたり、書画にも堪能だったようである。1682年、66才の生涯を終えた。

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          李梅渓書

 梅渓は日本人と結婚し、子供はなく清軒を養子にした。その後李真栄の子孫は、13代目の李あやが1984年に亡くなるまで連錦と「李」いう姓を名乗り誇り高く生き続けたという。

 和歌山市の海善寺に李真栄・梅渓父子の墓がある。
 梅渓の父母状碑が、海善寺と岡公園に建てられている。
 
李真栄・梅渓父子の顕彰碑が、1992年郷里の韓国霊山の公園に、1998年和歌山城の西側に建立された。
 
  李梅渓
       李真栄・梅渓父子顕彰碑

 筆者の李真栄・梅渓父子についての知識は、朝鮮通信使の勉強をする過程でたまたま知り得たものである。

 秀吉軍に連行された数万人の朝鮮人が故国に帰ることができず日本に残された。(参照・朝鮮通信使11)その中に、わずかであるが歴史に足跡を残した人たちがいた。ひきつづきその人たちをとり上げ記してみたい。
             つづく
     第6次朝鮮通信使
   
     朝鮮通信使の編成

 1655年、朝鮮朝廷は、4代将軍・家綱の襲職を祝う第6次朝鮮通信使を派遣した。485人からなる大使節団で日光参詣も行われた。
 
 今回は、どのように朝鮮通信使は編成されたのか、その構成員について少し詳しく述べてみたい。

 朝鮮朝廷は、日本に朝鮮通信使を派遣するにあたって、外交使節の役目と文化使節の役目を同時に果たせる、優れた人物を選抜するのに毎回苦心したようである。

   旗手
          先頭を行く旗手隊

 使節員に選ばれれば帰国後に昇進の機会はあったが、明・清国へ派遣される外交使節団・燕行使より低くみられたため、使節員になって行くことを拒否する風潮があった。朝鮮国内には秀吉軍の侵略・惨劇のイメージが濃く残り、そのうえ荒海を渡る命懸けの旅だったため、最初の頃の使節団編成は難航したようである。

 朝鮮通信使一行が無事に日本往還を果たし、その回数を重ねるごとに、日本の事情が少しずつ分かるようになり、それに相応して約500人近い人材を選び朝鮮通信使を編成するようになった。
 
 どのような人材で編成されたのか、第6次朝鮮通信使を例に上げてみる。
 
 朝鮮朝廷が、もっとも気を使ったのはリーダー・正使の選抜で、正三品以上の堂上官の礼曹参議(外務次官クラス)から選んだ。のちに領議政(首相)に登用されるほどの人物があてられた。経験豊富な高級官僚、人望があり、風采も重視されたという。

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            正使

 正使の補佐役・副使は正三品堂下官から選ばれ、毎日のできごとを記録する従事官は五、六品弘文館校理官から選ばれた。正使、副使、従事官は三使と呼ばれ科挙の試験に合格した文官である。それぞれ親族を専属ボディーガードとして同伴させた。

   副使
            副使

 その次に、重要な役割を果たすことになる訳官、日本語(倭語)通訳ができる上々官三名と漢文で筆談ができる製述官1名が選抜された。 
 これらの人選は、門地に関わらず文才のある実力者が選ばれ、製述官は文才の学士で文章の起草、筆談が堪能な人物であった。
 
 その他に、良医(三使の医師)、医員(三使以外の医師)、軍官(護衛官)、
 書記(三使・製述官の補佐)、写字官(書道家)、画員(絵描き)、典学(楽士)、吹手(ラッパ吹き)、馬上才(馬上曲芸師)、

   楽隊
            楽隊
 
 刀尺(料理人)、旗手(旗もち)、船将(船長)、沙工(船頭)、水夫(船こぎ)、 小童(通訳補佐・事務処理)、双子(三使の身辺世話)、小通事(日本語を学ぶ学生)等々、50余の職種に及んだ。
 「一芸を以って国に名のある者ことごとく従えて行く」と言われるほど全国から選りすぐった者たちで編成された。
 まさに、一国の行政システムを凝縮して移動するような多彩な編成であった。

 朝鮮通信使一行は、対馬藩士800人が先導し、前後の警護を命じられた大名の軍勢(藩士)と休憩・昼食宿泊の接待役、さらに駕籠・輿・馬など世話する者などさまざまな随伴者など総勢3千人の大行列となった。

   護衛藩士
          護衛藩士

 異国文化に触れる初めての機会であり、朝鮮通信使が通過する沿道は行列を見物する人々であふれ、熱狂的な歓迎であったことがうかがい知れる。

 これだけの大規模な使節団を送る朝鮮側も、それを受け入れ接待する日本側も、その財政負担は莫大なものであった。実際にどれだけの費用がかかったのか、具体的に調べて次の機会に記したい。

 ただ莫大な費用の大部分は日・朝双方の民衆に転嫁されたことだけははっきりしている。

 6次朝鮮通信使の日光参詣は三回目であったが、以後、使節団の日光東照宮への参詣は行われなかった。背景に財政問題があったとされている。
    つづく