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  天皇・皇后両陛下、「高麗の里」訪問
 9月20日、
 「天皇・皇后両陛下が、私的な旅行で朝鮮半島からの渡来人ゆかりの地として知られる、埼玉県日高市の高麗神社を参拝されたのち、巾着田曼珠沙華(きんちゃくだまんじゅしゃげ)公園など訪れた」の報道があった。
 昨年(2016年)、高麗郡建郡1300年を迎えたので、筆者は、ブログ「日朝文化交流史」に記事・「高麗の里」を掲載し、今年5月に100回をもってその連載を終えたのであった。
 この報道に接した筆者は、取材のため幾たびか訪れたことのある「高麗の里」を思い出し、さっそく今日(21日)500本の曼珠沙華が咲き誇る「高麗の里」の巾着田に行ってきた。
 天皇・皇后両陛下が観賞された、巾着田の真っ赤に染まった曼珠沙華・彼岸花の動画をご覧ください。


 

 史上初めての天皇・皇后両陛下の訪問に、地元「高麗の里」の住民は興奮冷めやらず、曼珠沙華の見学者はいっきょに倍増したという。
     朝鮮半島の平和を願う

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       東アジア・朝鮮半島の地図

 朝鮮半島に戦争の危機が迫っている。
 この危機は、超大国・アメリカが最新鋭の大量破壊兵器と圧倒的な軍事力をもって、北朝鮮に 核放棄を迫り圧力をかけているからである。
 一方の北朝鮮は小国であるが、核とミサイルで徹底抗戦すると一歩も引かない構えでいるためでもある。
 一触即発の緊迫した状態がつづいている。
 なんとか戦争だけは避けてもらいたいと祈るよな気持ちで成り行きを見守っている。

 戦争の危機が迫る度に,朝鮮戦争(1950~1953)時の悲惨を思いだす。
 南北合わせて数百万の死傷者を出した人命被害と都市の殆んどが廃墟となった。離散家族3千万とも言われている。再会を果たせず亡くなった肉親は計り知れない。今も悲劇の後遺症がつづいている。
 まさに、国が分断されている南北の人々にとって悪夢のような戦争であった。
 戦争の悲惨を知っている筆者は、何としても二度目の朝鮮戦争を起こしてはならないと、思いは切実である。
 世界の良識ある人であれば誰も戦争を望まず、平和的な解決を願っているだろう。
 アメリカは超大国の傲慢を捨て、北朝鮮は小国のツッパリをやめるべきである。
 具体的には北朝鮮を標的にした米韓軍事演習は即刻やめ、北朝鮮は核開発凍結を直ちに宣言すべきである。
 大国であれ、小国であれ一国の指導者は、自国民の生命・安全を守るだけでなく、世界の平和と安全のために尽力すべき責務があるはずだ。

    ハト

 平和的な解決は話し合いにつきる。話し合いは当事者がテーブルに着くことから始まる。
 そのためにまず、戦争状態を解消すること、相手国の立場を尊重し、お互いに忍耐強い外交交渉をすることである。虚心坦懐に話し合えば必ず平和的な解決の道は開かれるはずである。
 トランプさんも、キム・ジョンウンさんも自国の利害関係にとらわれず、東アジア・世界平和のためにリーダーシップを発揮して欲しい。
 隣国の大国である中国と日本は、朝鮮半島での戦争を回避し、緊張緩和と東アジアの平和のために積極的に仲介役を果たすべきではなかろうか。
 
 昨日(2017年5月9日)、韓国の大統領に「南北の対話・交流の再開」を公約した「共に民主党」のムン・ゼインさんが選ばれた。
 10年ぶりの南北首脳会談を一日も早く開き、お互いに不信感を払しょくして、共存共栄・自主・平和・統一への道を探ってくれるものと期待している。
 そして、今までの緊張状態が嘘だったかのように、平和ムードを一気に高めて欲しい。
 南北当事者間の和解を基礎に、早期に6者会談(米国・中国・日本・ロシア・南・北)を再開して、朝鮮半島の非核化と東アジア地域の恒久な平和を構築してほしいものである。
 最終的には、米・朝首脳会談を開催し、停戦協定を平和条約に転換して、緊張状態を完全に解消して欲しいと願っている。
 
 21世紀、今日の朝鮮半島の緊張状態は、7世紀に起きた東アジアの動乱を彷彿させる。
 「高麗の里」は古代、東アジアの朝鮮半島に起きた戦乱から派生的に生まれたものであった。 
  この時期、中国大陸に大国・唐が勃興し、東方の朝鮮半島にまで覇権の触手を伸ばした。 朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国が覇権争いを繰り返していた。
  三国のうち劣勢にあった新羅は唐と結び、新羅・唐連合軍でもって660年に百済を滅ぼし、つづいて668年に高句麗も滅亡させたのであった。
 百済、高句麗の滅亡により、百済、高句麗(高麗)人の多くは難民となり海外に逃れた。難民の一部は日本に渡来し定着した。
 高句麗の外交使節として日本に滞在中であった高麗王若光は、高句麗の王族出身であったため政治亡命者となった。
 若光は、奈良朝廷から 従5位下と高麗「王」(こきし)の姓を賜り、優遇されたように思われる。

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       高麗王若光 肖像画

 716年、武蔵国に新設された高麗郡の初代郡長となった若光は、東国七国から集まった1799人の高麗人(高句麗人)を率いて、未開地開拓を進め郡民の安住・安定をはかった。
 若光は、生涯賭けて高麗郡の開発と経済的発展、周辺居住民と共存共栄する善政を行なった。
 そのため、若光は老若男女すべての郡民から尊崇され、没後は高麗明神・白髭明神として高麗神社に祀られた。
 人々から称賛された生涯だったとはいえ、若光にとっては異国での終焉である。

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   高麗王若光の墓 聖天院勝楽寺境内

 若光にとって祖国はやはり高句麗であったはずである。
 多感な青年時代に外交官として日本にやって来た若光にとって、祖国に残した父母兄弟、縁者、同僚への想いは脳裏から離れることはなかっただろう。高句麗国再興の夢・故郷に錦を飾る夢を幾たび見たことだろう。
 いつの時代も戦争は、 人命被害と破壊という結果だけを残す。後遺症は永い間残るものである。
 21世の戦争は、恐ろしいほどの人命被害と難民を生み出すだろう。
 
 1300年前、高句麗からの難民によって建郡された「高麗の里」は、高麗王若光のリーダーシップよって「平和の里」としてその基礎が築かれた。

  巾着の春
     日和田山を望む巾着田の春

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     高麗の里を潤した高麗川

 高麗の里のシンボルである日和田山の「日」と高麗川の「高」を合わせて「日高市」と名付けられ、「高麗」の地名は地図上から消えた。
 しかし、「どのような状況下でも平和を愛し、隣人を慈しむ心があれば、皆が手を携えて生きていける」
 高麗王若光の平和の精神は、「高麗の里」とともにいつの時代にも生き続けることを筆者は信じたい。
 朝鮮半島を巡る緊張状態が緩和され、東アジアに恒久的な平和が訪れることを願っている。 
 
「高麗の里」はこの記事をもって最終回とします。
          おわり
2017.05.01 高麗の里98
      高麗出身の武蔵武士

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  高麗丘陵の風景 聖天院勝楽寺から撮影

 武蔵武士とは、平安時代末期から鎌倉時代、室町時代にかけて武蔵国を本拠にして活躍した武士たちのことである。
 平安時代末期、律令制度がくずれ、律令を根拠とした郡は存在価値を失った。それにともない地方では自ら土地を開墾し、その土地を守るために武装するようになった。武蔵国においても武士が勢力を増していた。武蔵武士は開発した土地の領主であり、その地名を名字にした。
  武蔵国の周囲、相模、上総、下総、上野、下野等に関東武士が次々と生まれた。武蔵国では武蔵7党と呼ばれる同族意識をもつ中小武士団が勢力を伸ばした。武蔵7党とは、横山党、猪俣党、児玉党、村山党、野与党、丹党(丹治党)、西党(西野党)ことで、他に綴党、私市党の2党があった。
 
 これらの武士団の中に、 高麗王若光を祖とする「高麗氏」、丹党から出た「丹党高麗氏」、桓武天皇の曾孫・高望氏の後裔「平姓高麗氏」の3氏が名を連ねた。
 若光を祖とする高麗氏が武士になった経緯については、すでに掲載したので省略する。(「高麗の里16=高麗氏系図」)
 「丹党高麗氏」は高麗五郎経家が鎌倉幕府の御家人となり、1190年、源頼朝入洛の際、五郎経家の子・高麗太郎実朝が先陣随兵として活躍したことが記録されている。
 また、「平姓高麗氏」には高麗景実・高麗定澄の兄弟が活躍したことや、定澄の子孫である高麗季澄、高麗経澄らが足利尊氏側につき活躍したことが伝えられている。
 「高麗」を姓とする武士団は3氏のみが記録に残るが、実際は「高麗姓」以外の高麗系武士団がはるかに多く存在したと思われる。
 なぜなら、高麗郡建郡から400~500年が経過し、建郡当初1799人であった高麗人の子孫は、その何十倍かに膨れ上がったと推測されるからである。そして何よりも、彼らは「高麗姓」ではなく、「日本姓」を名のり、周辺地域に進出していったからである。
 鎌倉時代の1259年、高麗神社が大火で貴重な家宝・資料ともに『高麗氏系図』 消失した。

 系図
   『高麗氏系図』 高麗神社所蔵
 
 その『高麗氏系図』 を再編集するために高麗氏の縁者、老臣たちが集まった。高麗、高麗井(駒井)、井上、新、神田、丘登、本庄、和田、吉川、大野、加藤、福泉、小谷野、安部、金子、中山、武藤、芝木等の姓名が連ねている。
 高麗氏宗家以外、全て「日本姓」であることは、渡来人子孫の殆どが在住民の中に同化、溶け込んだことを物語っているのである。
 それで筆者は、同化してしまった高麗郡出身の高麗人・武蔵武士は探し出せないと一旦はこの記事の掲載を諦めたのであった。
 ところが、たまたま図書館で『武蔵武士を歩く』(北条氏研究会編)見つけ、パラパラとめくると、武蔵7党の全武士団名と出身地を詳細に書いた図表が目に止まった。
 そこに書かれた高麗郡出身の武士団は、丹党の青木、加治、柏原、中山、野田、判乃各氏と児玉党の大河原氏、村山党の金子氏等である。これら武士団は高麗郡建郡当初の高麗人の後裔であることは間違いないと思われる。

  新田義貞
   新田義貞像  分倍河原駅前

  高麗人は、もともと高句麗騎馬民族であった。その後裔である彼らは馬の飼育、馬具の製造、弓矢を使った騎乗術に長けていた。この時代の馬は重要な移動手段であり、騎馬戦に欠かせないものとなっていた。武蔵7党武士団の活躍の陰に高麗人の騎馬術の影響が推測される。

 八国山1
   軍馬が通った八国山緑地 東村山市 

 武蔵武士は、鎌倉幕府が成立する当初は、その原動力となり目覚ましい活躍をしたが、源頼朝が没すると幕府内の政治抗争に巻き込まれ、武蔵武士の一部は権力を掌握した北条氏の対抗勢力となり少なからず滅亡した。 
 その後の武蔵武士は、後醍醐天皇の討幕派と北条派の戦い、新田と北条の戦い、足利尊氏と直義の兄弟間の戦い、足利と新田(南北朝)の戦い等で、敵味方に別れて各地で戦闘を繰り広げた。その過程で武蔵武士は次第に衰退していった。

  跡地
   分倍河原の戦いで焼失 国分寺跡

 関東での戦は、武蔵国内とその周辺が戦場となることが多かった。
 現在、小手指原、三ツ木原原、金井ヶ原、八国山麓の久米川、分倍河原、入間川原、高麗原、女影、笛吹峠等々が古戦場として跡を残している。
 武蔵武士が駆けめぐった旧鎌倉街道は、筆者が住む東大和市に隣接する東村山市・小平市・国分寺市を通っている。当時とは街道の様相はすっかり変わったが、旧鎌倉街道沿いに史跡が点在している。

  小手指
        小手指原の戦跡

 筆者は若いころ、時代小説『平家物語』、『太平記』を読んだことがある。その中に登場した武蔵武士の戦いは遠い昔のことであり、自分と関係のないところで起こった面白い物語にすぎなかった。
 ところが、「高麗の里」の記事を連載し、今回の武蔵武士の資料を調べる過程で、近くで戦が繰り広げられたことを知るとともに、近くの古道を駆けてゆく武蔵武士の存在が身近かに感じるようになった。
 これからは、「高麗の里」の記事取材を忘れて『平家物語』、『太平記』を読み直し、武蔵武士が活躍した古戦場や遺跡・伝承を訪ねて、のんびりと散策でもして見たいと思っている。
2017.04.17 高麗の里97
      奥多摩の白髭神社
 
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    JR青梅線の終点 奥多摩駅

 東京都の西端・奥多摩に白髭神社があることを知り訪ねた。
 高麗人が多摩川上流、奥多摩の山深い奥地まで本当にやってきたのだろうか?
 高麗神社の祭神を祀っているのは本当だろうか?
 半信半疑の気持ちと春の行楽気分も手伝って行くことにしたのであった。
 JR青梅線の終点、奥多摩駅から徒歩約50分、白鬚神社は想像した以上に山奥にあった。
 途中、神社の麓にある境という集落を横切ったが、集落の光景を見て驚いた。
 谷間の斜面に積み木のような家が建てられていた。まるで劇場の観客席のようにも見える。

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   奥多摩町境 白髭神社付近の集落

 後に聞いたが、この村の人たちが白髭神社を守り、毎年8月、神社の例祭で獅子舞を行うと言う。
 神社は、この集落から7,8分のところ旧青梅街道(奥多摩むかし道)の脇、急な階段の上に祠のような建物であった。

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     白髭神社  奥多摩町境

 右側から大岩が覆いかぶさるような格好になっていた。この大岩こそが御神体として崇められている白髭神社の祭神である。
 入り口付近にあった案内板に「古代において白髭大神信仰の文化が多摩川をさかのぼり、古代人の思想に一致した神やどる聖地として巨岩のある清浄高顕のこの地に巨岩を御神体として祭祀が営まれました」書いてあった。
 また、駅前の観光案内所でもらったパンフレットにも、「白髭神社は埼玉県日高町の高麗明神(高麗神社)を勧請したもので、この高麗明神はその主神は高麗王若光、猿田彦命、武内宿禰の3柱を祭神とし、その主神は高麗王若光です。高麗王若光は髭髪が真白かったため白髭明神と称えられました。」と書かれていた。
 やはり、高麗人が山深い奥多摩まで入植してきたことは間違いないようだった。
 せっかくここまで来たので、この神社付近を散策しょうと思ったが、狭い空間で長く居られるような所ではなかった。
 それにしても、なぜ、高麗人がこの山奥まで入り込み定着したのか、聞く人も見つかりそうもないので帰路に着いた。
 帰りの電車の中でパンフレットを見ながら、ハっと気がついた事があった。写真に写っている獅子舞の後方の女性の姿である。顔を4角形の赤い布で覆い隠している姿は、筆者が以前に高麗神社で見た獅子舞いに出て来た女性の姿そのままであったからだ。
 いつか高麗神社で演じられた獅子舞いを見学したとき、記事に関係ないものと撮影しなかったことが悔やまれた。
 ところが、帰ってネットで調べて見るとやはり、高麗神社で行われている獅子舞の女性は同じ姿であった。 それどころか、奥多摩町の入口付近に位置する川井の八雲神社で行われる獅子舞にも、この姿の女性が登場することがわかった。「雌獅子隠しの獅子舞」と言われているらしい。
 川井は青梅市から多摩川の上流、奥多摩の白鬚神社までの中間にあたる御岳付近にある。

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       高麗神社の獅子舞

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   奥多摩町川井 八雲神社の獅子舞

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    奥多摩町 白髭神社の獅子舞

 これらのことから、高麗郡(高麗の里)で生まれた白髭明神信仰・文化が入間郡から青梅へ、そこから多摩川をさかのぼり川井をへて、さらに奥多摩の山奥、境にまで影響を及ぼしたものと推測される。
 
 高麗明神を祀る白鬚神社はその殆どが高麗郡周辺にある。
 現在、武蔵国(現埼玉県・東京都・神奈川県東部)に残る白髭神社を調べてみると、
 高麗郡(飯能市、日高市、狭山市)29社、入間郡11社をはじめ合計63社もあるという。

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    白髭神社 入間市金子 

 これほど多くの白髭神社が、武蔵国一帯に広がった背景には、高麗人の後裔たちが増え、高麗郡の周辺地域へ進出・入植によるものだろう。
 
 びわ湖にある新羅系の白髭神社総本社をはじめ、全国に幾多の白髭神社が存在する。
 しかし、少なくとも武蔵野一帯の白髭神社は、高麗人による高麗明神・若光信仰の影響と考えられる。

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    奥多摩をながれる多摩川 御岳付近  

 高麗郡が建郡されてから数十年、数百年が経過する過程で、高麗人の子孫が多摩川をさかのぼり、奥多摩の奥地まで及んだのは、現代人の我々が考えるほど不思議なことではなかったように思われる。

 
2017.03.27 高麗の里96
       高麗僧・勝楽
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       聖天院勝楽寺前の風景

 高麗僧・勝楽の名を知る人は少ない。勝楽の名が知られていない理由は,詳細な記録がなく地方の一仏教僧にすぎなかったからと思われる。
 あえて筆者が、僧・勝楽をとり上げたのは、 勝楽寺村の「仏蔵院勝楽寺」と高麗王若光の菩提寺「聖天院勝楽寺」の2つの由緒ある寺院が共に,彼によって建立されたと考えられるからである。
 
 僧・勝楽の名が記録に初めて登場するのは、高麗王若光の侍念僧として菩提寺・聖天院勝楽寺の建立のときである。
 「高麗山聖天院の由来」には、
高麗王若光は高麗郡の長として、広野を開き産業を興し民生を安定し大いに治績を治めた。王は没後神に祀られ(現在の高麗神社)たが、その侍念僧勝楽は王の冥福を祈るため一寺を建立して果たせず751年(天平勝宝) 示寂したので、若光の3男聖雲と孫の弘仁がともに師の意志を継ぎ寺を建て師の遺骨を納めてその冥福を祈った。その寺が高麗山聖天院勝楽寺である」と書かれている。
 また、高麗神社が発行した『高麗神社と高麗郷』には、「聖雲が師僧勝楽の冥福を祈らんが為に勝楽が高句麗より携えて来たった歓喜天(仏教を守る天神の一つ・聖天様)を安置して開基した」と記している。

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     聖天院勝楽寺 本堂への階段
 
 仏蔵院勝楽寺は、百済からの渡来人・王辰爾の開山とされているが、それを記した「仏像院勝楽寺縁起」には、
 「霊亀2年(716年)に高麗人来居して一寺を建て、阿弥陀・歓喜天を安置、勝楽寺聖天院と呼び、4年後に2尊を抱いて北に移り、今の高麗村、高麗人の子孫が住むところに1寺を建て、聖天院勝楽寺大彌堂と言い、今も存在する」(所沢市史寺社編)と記されているのである。
 ここにいう高麗人とは、高麗僧・勝楽のことではないのか? 
 なぜなら、「阿弥陀・観喜天を抱いて北に移り」高麗村にて「一寺・聖天院勝楽寺」建て、「歓喜天」を安置した等、これら記事の内容に符合する人物として、高麗僧・勝楽以外に考えられないのである。

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      僧侶      歓喜天

 高麗王若光の侍念僧であった勝楽は、751年に亡くなったことことがはっきりしているが、いつ、どこで生まれ、いつ渡来して来たのか、いつから若光の侍念僧になったのか、仏蔵院勝楽寺を開山したという百済人とはどのような関係にあったのか謎が多い。
 筆者が僧・勝楽について、わずかな資料と伝説をよりどころに、次のように想像力を膨らませてみた。
 668年高句麗の滅亡により、僧・勝楽は多くの高句麗人(高麗人)と共に難民となって日本に渡来、入間郡勝楽寺村に入植した。僧・勝楽を中心に高麗人たちの技術力と懸命な努力により開拓がすすめられた。そして約50年後の716年、勝楽寺の建てるまでに経済力が向上し、生活も安定したと思われる。

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    現在の仏蔵院勝楽寺 所沢市山口 

 勝楽らが入植した頃は、未開地で地名すらなかったが、寺院建立にともに僧・勝楽の名に因んで勝楽寺の寺名が付けられ、やがて、周辺集落を 勝楽寺村と呼ばれるようになったと考えられる。
 勝楽寺建立の同年、高麗郡の設置と王族の高麗王若光が郡司として赴任することを聞いた僧・勝楽は、その4年後、2尊を抱いて高麗郡の若光を訪ねた。この時から高麗王若光の侍念僧になったと考えられる。
 僧・勝楽の活躍により、勝楽寺村と高麗郡との交流も盛んになった。
 『仏蔵院勝楽寺縁起』に「上山の大彌堂を崩して寺を建つるに高麗村より人多く来り助け造れり是を勝般寺と号す」と記されている記録は、頻繁に交流が行われたことを裏付けているのではなかろうか、

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     聖天院勝楽寺山門 文化財

 僧・勝楽は高麗郡全域の仏教の普及に貢献したと思われる。高麗郡建郡1300年を記念して発行された『早わかり高麗郡入門』に、「高麗氏系図には天平勝宝3年(751年)に僧・勝楽が亡くなり、勝楽寺を創建すると記されています。発掘調査によって得られた高岡廃寺の創建年代と勝楽寺の創建年代が一致することから、高岡廃寺は高麗氏一族の仏教の師である僧・勝楽の菩提寺だった勝楽寺の可能性が高まったのです」と書いている。勝楽寺の末寺は54寺あったと記録されている。
 若光の子・聖雲や孫の弘仁が、勝楽を師として敬っていることから、高麗僧・勝楽は入間郡の勝楽寺村や高麗村はじめ、高麗郡(高麗の里)の村民から信望をあつめた名僧であったと思われてならないのである。