FC2ブログ
  奈良盆地
            奈良盆地(大和平野)    竜王山城から市街を望む                 

            はじめに

 大仏といえば誰もが奈良の大仏か鎌倉の大仏を思いうかべ、

 そして奈良大仏がより大きいことも知っている。奈良東大寺大仏は、

 像高約16m、顔の長さ3・2m、頭部の螺髪(パンチパーマ)は約1千個あり、

 その一つ一つが人間の頭より大きく、銅約500トン(10円玉約1億枚)、

 錬金400キロを使用したといわれる。当時の人口推定550万人の半数にあたる

 延べ260万人が動員され、約8年の歳月をかけて完成した仏像である。

 銅製の仏像としては世界一大きく、大仏を納めている大仏殿も

 木造建築物としては世界最大級である。
 
 巨大な仏像の正式名は毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)と云い、

 サンスクリット語で「ブイローチャナ」と呼ばれ、その発音を音写して盧舎那仏と云う。

 盧舎那仏とは「華厳経」の教えで「光明があまねく照らす」、

仏の光明が宇宙全体に行きわたり、その救おうとする心は太陽の光のように

 輝くという意味で、大きな仏像を造ることはそれだけ信仰心があつく、

 ご利益も大きいと考えられた。

 結跏趺坐(けっかふざ)する蓮華の台座には、釈迦を中心に菩薩群、

 九山八海四洲などを表す須弥山(しゃみせん)などの絵が線刻で描かれ

 蓮華蔵世界・極楽浄土が表現されている。

だいぶつ6
              盧舎那大仏坐像 (奈良大仏)       

大仏5
             東大寺大仏殿 (江戸時代再建)      国宝建造物


 1300年の昔、なぜこのような巨大な仏像を造立するようになったのか? 

 誰が発願し、協力・推進者は誰か? いかなる技術者集団が加わり、

 莫大な財政負担はどのようにまかなわれたのか? 

 等々の疑問にたいして、知っているようで知らないことが多く、筆者もその一人であった。

 奈良という呼び名が、「国」、「都」を意味するハングル(朝鮮語・韓国語)の

 나라(ナラ)に漢字の「奈」、「良」を当てたものである。

 その漢字は5世紀初、百済から渡来した王仁によって日本に伝えられた。

 同時期に仏教をはじめ紙や墨をつくる技術、機織、寺院の建築、堤防の築造・

 治水灌漑の土木技術等、天平文化(白鳳・天平)そのものが

 朝鮮半島からの渡来人とその子孫たちによって造られたものが多い。

 日本民芸運動の先駆者である柳宗悦は朝鮮が日本の植民地であった時代に

 「日本古代の芸術作品は朝鮮の影響をうけたものであり・・・

 日本が国宝として世界に誇る殆ど凡ては、実に朝鮮民族によって作られたのではないか
」 

 (『朝鮮の美術』1922年)と叙述した。

 天平文化の象徴である大仏造立という大事業もまた、僧行基をはじめ朝鮮半島からの

 渡来人とその後裔・子孫たちが大きな役割を果たした。

 奈良大仏造立の過程について浅学を顧みず記してみたい。

大仏1
              東大寺 大仏殿屋根      二月堂とり撮影




       岡寺から飛鳥
          古代ロマンの里 飛鳥       岡寺から撮影

1、 仏教の伝来
 
 日本に仏教が伝来(公伝)したのは、元興寺(飛鳥寺)縁起によると538年

 (『日本書記』では552年)、百済の聖明王から欽明天皇に金銅の釈迦如来像と経典

 仏具が贈られ、7人の僧が渡来したことから始まるとされている。

 飛鳥地方にすでに根付いていた百済系渡来人、東漢(やまとのあや)氏一族の支援を得て

、急速にその勢力をのばした蘇我氏はいち早く仏教を受け入れていた。

 欽明天皇自身は日本古来の神を祀る司祭者であるため受け入れに慎重であった。

 百済王からの伝来を受けて、特に仏像の見事さに感銘し、群臣に対し意見を聞いた。

 「西方の国々の『仏』は端厳でいまだ見たことのない相貌である。これを礼すべきかどうか」
 
 これに対して蘇我稲目は「西の諸国はみな仏を礼しております。

 日本だけこれに背くことができましょうか
」と受容を勧めた。

 この意見に対し武門氏族の物部尾輿は「我が国の王の天下のもとには、

 天地に180の神がいます。今改めて蕃神を拝せば、国神たちの怒りをかう

 恐れがあります
」と反対した。そして、崇仏・廃仏論争がまき起こり、

 意見が二つに分れたため欽明天皇は仏教への帰依を断念し蘇我稲目に仏像を授けた。

 稲目は私邸を寺として仏像を拝んだ。

 その後、疫病が流行ると、尾輿らは外国から来た神(仏)を拝んだので、

 国津神の怒りを買ったのだとして、寺を焼き仏像を難波の掘江に捨てた。

 こうして仏教の可否を巡る論争は争いに発展し、次世代までつづいた。

 物部尾輿の子・守屋は 破仏活動を活発化させたため、蘇我稲目子・馬子と 

 ついに、587年、蘇我・物部の雌雄を決する全面戦争となった。

 多くの皇族や豪族を味方につけた 蘇我馬子が勝利した。

 この戦いには厩戸皇子(聖徳太子)が馬子側に参戦していた。

 勝利した蘇我馬子は百済から僧令照をはじめ寺工(建築技師)、瓦博士、彫刻家等の

 集団を招き、593年に日本で最初の本格寺院・飛鳥寺(法興寺・元興寺)を建立した。

    飛鳥寺
                   飛鳥寺

 また、この寺院の本尊である「飛鳥大仏」(釈迦如来坐像・金銅製・像高約5m)を鋳造した。
 
 この大仏は、百済から渡来した止利仏師(鞍作鳥)によって造立された、

  飛鳥大仏
         飛鳥大仏   釈迦如来像(銅製)   止利仏師昨
 
 飛鳥寺の伽藍配置は、塔を中心として東・西・北の三方の金堂が建つというもので

 東西200m、南北300m、法隆寺の3倍もある雄大な境内を有していた。

 日本最古の本格寺院であった。現在発掘調査が続けられている。

  遺跡
   593年建立、平城京遷都時に移転、現在の元興寺(奈良市内)  
 
 推古天皇の摂政となった聖徳太子(574~622)は百済僧の恵聡と高句麗僧の恵慈を

 師として仏教を学んだ。彼は政治を革新するための基調として仏教を採用し

、仏像をつくらせ寺を建てることを奨励した。自らも父・用明天皇のために法隆寺を建立した。

  法隆寺
       日本最古の木造建築    世界文化遺産

 こうして飛鳥地方は6世紀末から7世紀にかけて仏教の中心地、

 渡来(高句麗・百済・新羅)文化の情緒が漂う都となった。

    22   33
          法隆寺五重の塔    幻想的な2景

  山尾幸久は「7世紀前期の大和の飛鳥地方を中心に、

 国際色豊かな仏教文化の花が開いた
」(『蘇我氏と東漢氏』)、

 また、五木寛之は飛鳥の里は「日本のふるさと」といわれる土地でありながら

 「渡来人の里」、「国際色豊かな場所」、「エキゾチックな地域

 (『百寺巡礼』第1巻 奈良)になったと表現している。 
                             つづく

飛鳥の里
  現在の飛鳥寺周辺の風景

   生駒
     生駒山            行基 山中にある竹林寺に眠る
             
        聖徳太子と行基
 聖徳太子(574~622)と行基(667~749)、二人は同時代に活動した人ではない。

 太子は仏教を朝廷・支配層に定着させ、行基は弾圧されながらも

 仏教を民間の中に布教した。若干の時代的違いがあるが、

 二人して日本に仏教を根付かせた歴史上の人物である。

         印紙                        img036.jpg
       「行基大僧正」  東京国立博物館造 

 推古天皇(592~627)の摂政となった聖徳太子は百済僧の恵聡と

 高句麗僧の恵慈を師として仏教を学んだ。彼は政治を革新するための基調として

 仏教を採用し、仏像をつくらせ寺を建てることを奨励した、

 また、仏教の精神に基づいて17条憲を制定し、仏教興隆の道をひらき、

 仏教を朝廷や支配層の中に定着させた。しかし、仏教は民衆には無縁であった。

 民衆の中に仏教の布教をはじめたのは行基である。後に民衆から行基菩薩と慕われる。

 梅原猛は「聖徳太子と行基によって日本は仏教の国になった」(『仏になろう』)と語る。

       橘寺
         聖徳太子生誕の地   奈良県高市郡明日香村

 ところが、聖徳太子については教科書に多くのページを割いて扱われ、

 小説、ドラマにもなり日本人であれば、ほとんどの人がその名を知っているが、

 行基については一般的に太子ほどに知られていない。高校の歴史教科書に奈良時代の

 「僧侶の活動は、国家のきびしい統制のためもあって一般的に寺院のなかにかぎられ、

 民間への布教はあまり活発ではなかったが、それでも行基のように、政府の取締りを

 うけながらも農民のための用水施設や交通施設をつくるなど、布教と社会事業に

 つくした僧もあった
」と

 数行触れてはいるが、行基について理解するにはあまりにも不足していると思われる。

 筆者は行基の『墓誌』や『行基辞典』、『行基年譜』など、

 行基に関する本を参考にしながら、行基の出自、学問と修行、寺院建設、農業用水、

 交通施設、社会福祉活動等について簡単に記してみたい。

 また、本題である大仏造立に如何に関わり、

 どのような貢献したかについても微力を尽くして記してみる。
                                  
                                  つづく 

      家原寺
         行基生誕の地  家原寺   堺市西区家原町



    大和葛城山
     大和葛城山  修験道霊場     役小角・行基の山岳修行地


              行基の出自と修行

行基の父は高志才智(こしさいち)、高志氏は書氏・西文(かわちのふみ)氏から別れた一族で、

高石市高師浜にある高石神社一帯に住み、祖の王仁は5世紀初、応神朝のとき

漢字入門書「千字文」と「論語」を携えて百済から渡来し、日本に漢字・学問を普及させ、

当時の朝廷貴族・支配層から「学問の始祖」、「博士」(ふみよみひと)と崇められた人である。

行基はその王仁の後裔・子孫である。

母は蜂田古仁比売(はちだこにひめ)、蜂田氏は百済系渡来人で河内国大鳥郡

一乗山清涼院(堺市)一帯に住み、行基はこの地の家原町で生まれた。

したがって行基が渡来系氏族出身であることは間違いない。(『行基辞典』井上薫)

行基の家庭は貧乏で母は賃金をもらって田植えの下請けの仕事をしていたという。

梅原猛「彼は生まれゆえに、民衆の生活の苦しさをつぶさに知ることができこのような

多くの衆生を救済することができたのであろう
」(『日本仏教をゆく』)と述べて

子供の頃、行基は木をとって堂を建て、泥にて仏を作り、石ころで塔を建て、

 砂の上に仏像を描いて遊んだという。

 行基は15才で出家して元興寺(法興寺・飛鳥寺)に入り、道昭(渡来人船氏出身)を 

 師として 法相宗をはじめ学問・修行に励んだ。師の道昭は唐に留学、

 玄奘三蔵に師事して、法相宗の教学を学び、661年多くの経典をたずさえ帰国、

  法興寺の東南に 禅院を建て弟子を養成した。道昭の弟子となった行基は、

 法相宗を一読して即座にその奥義を理解したといわれ、ている。

 オーバーな表現であるが行基の俊才ぶりを表したものだろう。

 飛鳥の里
     行基が学問・修行した元興寺・飛鳥寺付近 当時の元興寺、平城京に移転

 
 また、道昭は10余年諸国をめぐって井戸を掘り、橋を語り、各地に社会福祉施設の

 設置に努めた。師のこのような事業や活動に行基も参加し実体験したと思われる。
 
 行基がのち民間で布教と社会福祉事業と並行して進めるやり方は

 道昭から学んだものであった。

     元興寺
    平城京に移転した現在の元興寺 重要文化財 奈良市内

キキョウ
元興寺境内   桔梗の名所 シーズンには観光客で賑わう


 元興寺での修行を終えた行基は山岳修行・隠遁の道に入った。

 行基28~37才の10年余、彼は大和葛城山(修験道発祥地)の山中で

 修業に励んだと推測されている。この頃の行基について、墓誌に「苦行精勤」記され、

 「続日本記には「霊異神験は類に触れて多し」と記しているにすぎないが、

 葛城山中で烈しい山岳修行に励み、心身を鍛えたことは

 その後の超人的な活躍から容易に想像される、

 この頃、葛城山の山中では密教呪法に長じ役行者と呼ばれる、

 修験道の開祖・役小角(えんのおずぬ)が修行していた。

 『続日本記』に記された、役小角が699年に伊豆に流された時期が、

 行基の山岳修行時代(695~704)が一致することから行基と役小角の二人が

 何らかの接点があった可能性は十分に考えられる。

     大鋒山
       役小角の開基伝承   国宝    吉野郡吉野村吉野山


 修験道者の荒行苦行は記録に一切残さない。行基と役小角の二人が

 葛城山中で会っているとすれば、どんな会話を交わしただろうか?

 想像するだけでもたのしい。
                  つづく     
      
      吉野山
        山岳信仰霊場本山  桜の名所  歴史の 吉野山   

   
 
      狭山池
       狭山池 日本最古の溜池  731年行基改修    平成大改修            
 
            行基の布教と社会事業

 行基が山岳修業を終えて、民衆の前に現れたのは704年(37才)、

 自らの生家を改造して素朴な家原(えばら)寺を開いたときからである。

 その後、行基は民衆と共に生き、民衆と共に働き、民衆のために生涯を捧げた。

       家原寺銅像
           生家 家原寺前の行基像
  
 行基が出家した頃の仏教は国を守る鎮護国家のためにあり、
 
 僧侶の役目は国の繁栄や天皇の健康を祈ることにあった679年の勅で僧は

 「常に寺の内に住み、以て三宝(仏・法・僧)を護る」ことが本務であるとされ、

 寺院外での布教や 諸活動は禁止されていた。朝廷や豪族が平城京の造営と

 同時に大安寺、薬師寺、興福寺、元興寺などの寺院を建立し、

 仏教を奨励したのはそのためであった。

 しかし、行基は寺院に留まらず外に飛び出して、民衆に語りかけた。

 彼の平易な説法を聞いた民衆は争って行基を慕い礼拝したという。

 行基が民衆から熱烈な支持を受けるようになった、もう一つの理由は、

 抑圧や貧困からの解放を望む民衆のために、井戸を掘り、橋を架けるなど

 池溝活動や社会福祉事業を民衆と一緒になって営んだからであった。

 若僧のころに、師の道昭に従い現場で実体験から優れた土木・建築技術を習得していた

 行基は弟子たちを従え橋や道づくり、池、堤を築く灌漑工事、港湾建設、

 貧苦にあえぐ人々や病人を救う布施屋(租庸調の運搬脚夫や役民を宿泊させ

 食物を与える施設)を各地に設けた。彼は「利他行」(自分のことよりも他人の

 利益や幸福のために行う)を率先して実践したのであった。

 千田稔は行基四十九院をはじめ行基の足跡を検証して次の地図を作成した。

 img052.jpg
      行基が活動したゆかりの地   『天平の僧行基』より引用

 交通手段も機械もない一万三千年以上の昔の奈良時代、

 行基は超人的ともいえる活動して、その業績の痕跡を残した

 彼が741年(天平13)までに河内、和泉、摂津、山城国など畿内に多くの寺院の

 建立したことをはじめ、溜池15、溝6、橋6、布施屋9、船息2、堀4等を

 知識・知識結 (仏と結縁するために田畑、穀物、銭貨、労働力を差し出す信者集団)の

 協力で建造した。 (「行基年譜」)

 行基が建立した寺院は布教活動と社会福祉事業と結合して使われた施設であった。

 たとえば昆陽施院には昆陽池・布施屋および弧(親のない子)、独(子のない親)の

 収容所が結合し対応する寺(今日の福祉施設)であった。

     昆陽寺731
      昆陽寺 地元では「こやでら」 「行基さん」 伊丹市

     昆陽池
           昆陽池 現在伊丹市都市公園 

   s-昆陽池野鳥
     行基が造った昆陽池 今は 野鳥の楽園 白鳥など3,000羽 飛来

 行基の活動状況について『続日本記』(797年)は、

 「早くから都や地方を周遊して、多くの人を教化した。僧侶や俗人が
 
 教化をうけ和尚を慕う者は千人に達することもあった。和尚が来ると聞けば、

 巷の人が争ってやってきて礼拝をした。それらの人々の器量にしたがって導き、

 みなを善に向かわせた。自らも弟子たちを率いて、いろいろな要害のところに
 
 橋をつくり、堤を築いた。その評判を聞いた人がまた、やってきて労働を提供したので


 またたくまに工事は完成した。人民は今に至るまで、その恩恵をこうむっている

 和尚はふしぎな神がかり的なことをいくどとなくした。時の人は行基菩薩と号た


  と記している。

 この様な行基の活動について金達寿は、「これはカッコつきかもしれませんが、

 社会主義的伝道師というか、奈良時代の社会主義者だったわけですね
」と語っている。

 (『日本の渡来文化』) 

 千数百年の昔、社会主義的な思想が行基によって実践されていたのだろうか?。
 
 窮民、病人の救済の途をひらいた行基の活動は、各地にその 痕跡を残している。

 『行基ゆかりの寺院』によれば、全国に1400余カ所が伝承され、そのうち北海道を除く、

 全ての都府県に現在750余の行基開基の寺院が確認されている。

 筆者の住む東京多摩地区に、八王子の高尾山の薬王院、
 
 日野の高幡不動金剛寺、青梅の安楽寺等が行基の開基と伝承されている。

   高幡不動
        高幡不動金剛寺  関東三大不動尊の一つ(成田山、大山)
 
      高尾山薬王院の本尊薬師如来像は行基作と伝えられている。

       行基高尾山
              高尾山薬王院の行基像

        行基には僧侶の最高の地位「大僧正」「高僧」より、
        民衆が崇める“菩薩様”が似合っている。

                           つづく

       薬王院
             薬王院全景       高尾山山頂付近