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    s-山焼き
            奈良若草山の山焼きの夜景

        行基の「裏切説」、「非協力説」

ところで、行基の大仏造立への勧進、協力についてはいろいろな「説」がある。

その一つは、行基の大仏造立のための勧進は官の事業に協力したことになり,

民衆を裏切って朝廷権力と結びついたとする、行基「裏切説」である。

社会主義的な現代思想からすれば、弱者・窮民・民衆の味方であったはずの指導者が、

権力側が民衆に負担・苦痛を強いる事業に手を貸し協力することは「裏切り」行為となるが、

当時の 行基の説法や施しに生きがいを覚え、救われ、信者、知識となった民衆にとって、

行基の行うことはすべて善、「利他行」であったはずである。行基が大仏造立に協力した後も、

民衆の行基に対する信頼を失うことはなかった。

二つ目は、行基は大仏造立のために勧進も、協力もしていないとする

行基「非協力説」がある。金達寿氏は「行基がそのような大僧正となったのは、

金銅盧舎那仏造立や、それを本尊とする東大寺建立のためにかれがその弟子たち、

すなわちその集団を率いて勧進となったから、というのがそれであるが、しかし、

行基がそのような勧進となったという事実・根拠はどこにもないのである。

行基にあってはそんな権力的、あるいは国家的名利など、はじめからまったく

念頭になかったのである。・・・大僧正となった以後もその事業に変わりなく、

民衆のことしか考えていなかった行基は、ただひたすらわが道を往くであった」

(『行基』歴史の群像7)とし、大僧正に任じられたことだけで、

行基が協力した根拠にはならないと論じる。行基が大仏造立に協力したことは、

「行基法師が弟子を率いて、多くの人々に大仏建立を勧め誘った」(『続日本記』)と記され

 この記事が唯一の史料的根拠である。
  
 この史料的根拠をもって紫香楽宮での大仏造立の勧進は行ったが、

 「東大寺での大仏造立事業から離脱した」(『日本仏教史の研究』二葉憲香)という説もある。

 史料がないから行基は大仏造営に関わってないと言うのである。

  史料が無いから事実がなかったとするのは結論の急ぎすぎである。  

 古代史の場合、一つの史料的根拠だけをとり上げて結論を出すことは危険である。

 しかし、客観的な状況からみて行基とその集団は勧進を行い、

 大仏造立の技術・労役など作業にも加わり協力したと思われる。

 大仏造立は知識の力を借りておこなう事業であり、官の行政力だけでは不可能な

 大事業であった。財政もそうであるが、高度の建築・土木・冶金・鍍金・彫刻等の

 技術集団の協力が不可欠である。仮にそのような技術者を官の力で強制的に徴発して

 働かせたとしても、長期間つづけることは不可能である。行基の勧進に応じて

 大仏造立に寄進した豪族、板持氏、川俣連人麻呂らの名が記録されている。

 行基の知識結が積極的に協力することによって、行基の影響下にあった地方豪族もふくめ、

 貴賤を問わないさまざまな階層の人々が動き、大仏造立という比類ない大事業が

 前進したと考えるのが自然である。

 井上薫氏は「行基は民間で最も強力な、造仏のための支え柱であった。

 行基の献身をほかにしては大仏の達成はありえなかった」(『行基』と述べ、

 林屋辰三郎氏は「仏法を平易に説き、数多くの知識寺を各地に造り、

 組織的な労働力を動かす力をもつ行基の参加はおそらく大きな力となったことは疑いない」

 (『民衆生活の日本史』)と断言する。

      s-薬師寺
            奈良大池から薬師寺・若草山を望む



3桂
     桂川から霞かかる愛宕山を望む   嵐山渡月橋付近
 
  4)秦氏一族の技術、労力支援
   
   平安京への遷都後、造営工事のもっとも中心的な役割を担う官職、

   造営大工と少工が任命された。大工・少工は造宮の技術責任者、副責任者のことで、

   大工に造営大工に外従五位上・物部多芸建麻呂(もののべのたきのたけまろ)、

   少工に外従五位下・秦都岐麻呂(つきまろ)である。

   外位は地方貴族や地方官に与えられる位階で、内位にくらべて位が低い。
   
   物部多芸氏は美濃国多芸郡出身の地方官、秦都岐麻呂は蕃族出身で

   二人ともに位や身分が低い、にもかかわらず登用されたのは、

   二人のもつ技術はきわめて優秀なものであったからである。(井上満朗『渡来人』)

   彼ら二人の指導のもとに、建築・道路の土木工事が行われ、

   多くの測量工、大工、瓦工、左官工等が動員されたであろう。
  
   そこには経験豊富な秦氏一族の人々が含まれていることが想像できる。

   また、新都に旧都の平城京から移って来る人たちが居住するためには

   主食や野菜、燃料などの生活品もひつようであった。これら日常必需品の供給も

   秦氏一族の積極的な協力なしには不可能であったろう。

   以上述べてきたように、京都盆地開発や平安京遷都・造営に

   朝鮮半島からの渡来人、とくに秦氏一族の貢献度は大きかっと思われる。

   そのような歴史的事実があって日本人の心の故郷、今日の京都があると言えるだろう。

        衛星写真
         京都市街図と平安京     衛星写真  

   井上満朗は「渡来系氏族…彼らが、中国大陸・朝鮮半島

   伝来の先進的な文化・文化を日本にもたらした。それらはとくに京都の地で

   華麗に花ひらくことになった。それをうけての宮都建設なのであり、

   それ以後京都の地が千年の王城として政治、経済、文化の中心になったことを思えば、

   渡来人の活躍は 日本の原点を担うものであったといえよう
。」(『渡来人』)

     桂川5
             (昔、秦氏一族が築いた大堰はどんな風景だっただろうか?)
        

   もちろん、秦氏一族や渡来人だけが京都盆地開発や平安京造営に

   貢献したのではない。平安京遷都・造営と大事業は、藤原氏をはじめ

   桓武天皇の側近氏族やさまざまの職掌の人、住民が秦氏とともに協力、

   貢献しなければ、成し得ないことであったことは言うまでもない。

   永年、秦氏の研究を重ねてきた大和岩雄は「秦氏は渡来人氏族の中では

   最大であり、日本の文化・経済・宗教・技術・政治などに、 

   広く、深く、影響を与えている。 だから、秦氏について考究することは、

   最大の渡来氏族についてではなく、日本の文化・経済・宗教などにちての考究にもなる


   (『秦氏の研究』)言及している。
                   
 神泉2
    神泉苑法成橋 園遊の場 平安京大内裏に接続  現在二条城の隣り
     (平安京創設時から残る数少ない遺跡の一つ、往時の十分の一縮小) 
 
              おわりに

在日二世の筆者は京都市西京区松尾の出身で、地元の松尾小学校、桂中学、桂高校に通った。

この小・中・高校の生徒は、桂川と西山の間、嵐山渡月橋から南へ、松尾、山田、御陵、

大枝、そして阪急電車沿線の上桂、桂、物集、向日町、長岡等の区域から通学していた。

今もこの域には、筆者の同級生や友人、知合いの人が多く住んでいる。ところが、

筆者はこの地域が秦氏が開拓したゆかりの地であることを最近まで全く知らなかった。

嵐山渡月橋の上流約50mのところに堰堤がある。高校を卒業する頃までは、

その付近で泳いだり、ボートに乗ったりしてよく遊んだ。その頃から古希になる今日まで、

筆者はこの堰堤はボートが流れ落ちなように事故防止用と、渡月橋が急流で

流されないようにするための二つの目的で築かれたと思っていた。

[丹青会]の勉強会で発表するため渡来人に関する本をあさっている中に、

京都盆地開発に絶大な技術、財政、組織力をもった秦氏一族を知るようになり、

この堰堤が川の氾濫を防ぐとともに桂川両岸の下流域を開墾することが目的で築かれ、

秦氏一族が発揮した才たる事業の一つであったことを知った。

私が生れ育った全域が秦氏一族の開発の恩恵を受けていたことになる。

晩年であるが新しい歴史的事実の発見に小さな喜びを感じた。  

また、渡来人に関する勉強の過程で、平成天皇が68歳の誕生日を迎える記者会見で

私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の

 子孫であると『続日本紀』に 記されていることに、

 韓国とのゆかりを感じています
」(2001年12月23日)と語ったことを知った。

 その桓武天皇の生母・高野新笠の墓が京都市西京区大枝にあること、

 大枝には中学校時代の友人が居るところで、その当時を懐かく思いだす。

 1200年以上の昔、桓武天皇の母がこの地に住み、天皇自身が少・青年期を

 この地で過ごしたことを思うと、なんとも表現しようのない歴史の不思議を感じる。

 この拙文を作成する過程は、筆者にとって歴史の再発見であり、

 歴史教育、歴史認識の重要性を再認識する過程でもあった。

                          同人誌『丹青』掲載記事より

          桂川2
 京都 桂川 秦氏により両岸流域が開発された 松尾橋からj上流を望む