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          達磨図 
           だるまず

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 達磨図 83-57㎝ ソウル国立博物館

 17世紀の朝鮮朝(李朝)を代表する画家は金明国(1600~1662)であろう。
 彼は山水と人物を良く描き、また「達磨図」のように優れた禅宗的な画を残した。
 彼の人となりが豪放で諧謔(かいぎゃく)に富んでいて、大酔した後に、初めて絵を描く癖があった。
 その絵の多くは酔って描かれたものだといわれている。
 彼は当時の代表的な画人として、朝鮮朝が日本に通信使を送る時、選ばれて1963年と1643年の2次にわたり江戸まで行ったという。

 通信大使
    朝鮮通信使行列  通信大使
 
 その時、使節団が日本各地に到着するや「多くの人々が大波のように集まり、小さな絵でも入手すると貴重な玉を得たように喜んだ」と伝えられている。
 金明国も求めに応じて多くの絵を描き残したと言われている。

 この「達磨図」は、江戸の文人たちが見守る中を、大きな毛氈(もうせん)に紙をのせ、盃になみなみと酒を注がせ、それを一気に飲みほし、
 そして、「いざ!」と気合を入れるや、豪快な輪郭と、細筆による目鼻と口のまわりの髭(くちひげ)と鬚(あごひげ)をたちまち仕上げた。
 その神業に、江戸の文人たちのあげる嘆声が聞こえてくるような絵ではないか!

 江戸入場
   朝鮮通信使 行列図

「朝鮮通信使」について、日韓両国の団体が正式にユネスコの世界記録遺産に登録申請中と言う。
 「朝鮮民族の美」は、この25回目をもって最終回とします。
          おわり

 追記 2017年11月12日(日)12時半~14時
     復活 「第3回川越唐人揃い」
   多文化共生・国際交流パレードが行われる。

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   「川越唐人揃い」 チラシ

 毎年、この時期に行われる「川越唐人揃い」は、国際色豊かな パレードである。
 朝鮮通信使は江戸時代に12回、毎回4~500名の使節団が来日し、
 国家間の外交にとどまらず、学問、芸術を通じた豊かな文化交流が実現した。
 「朝鮮通信使」を新しく現代風に復活させた祭りである、
   到彼岸寺 毘盧遮那如来坐像
 (とうひがんじ びるしゃなにょらいぞう)
 
 朝鮮では、8世紀中頃から鉄仏が作られはじめた。さらに像に銘文が刻まれるようになり、仏像の編年に貴重な資料となった。
 この到彼岸寺(江原道鉄源郡東松面)の仏像は、新羅時代の865年に造られたことが銘されている。 

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   座高 91cm 865年造成 
  
 お顔はこれまでの像とは異なり、現実的な人間の顔を持つことから考えて、当時の禅宗の高僧をモデルにしたかも知れない。
 8世紀後半から9世紀にかけて作られた毘盧遮那仏は華厳と禅の密接な関係のもとに地方豪族の支持を得て成立した。
 それまでの首都慶州中心の画一的な様式を抜け出し、江原道や全羅道など地方に多様な様式の仏像が作られた。
 この如来像の銘文によれば、「信徒千五百余名が結縁して、金石の如き堅い志をもって勤め、労苦を覚えず」造成したとある。
 これは、自営農・豪族たちの強い自立心と自信を示す如来像である。
 地方に社会的・政治的な諸階層の進出が見られ、「地方の時代」が始まったことを物語っている。
     石窟庵 十一面観音菩薩像
  (せっくつあん じゅういちめんかんのうぞう)

石窟庵の入口を入ると、左右にそれぞれ四躯ずつの八部衆が立っている。
 つづいて主室に入る扉道には、左右に二躯の金剛力士と、二躯ずつならぶ四天王像が主室を守っている。
 そして主室に入り、本尊を拝し見渡すと、左右に梵天と帝釈天、ついで文殊と普賢の菩薩がつづく。 
 本尊すぐ横の左右の壁には五躯ずつの十大弟子が個性的な顔で並んでいる。

  釈迦如来
  ドーム型主室 本尊を二層の諸仏像が囲む

  本尊真後ろ中央には、隠された本尊仏のように美しい十一面観音が現すのである。
 新羅人は誠を尽くしてこれら諸仏を彫り上げたのであろうが、特にこの十一面を美しく仕上げている。

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        全高 2・44㎝

  この像は6・5等身の東洋的女性の理想像、これこそ釈迦の慈悲心である。
 東向きに建てられている石窟庵は、日の出の名所としても有名です。
 主室内に朝日が入ってくると本尊の額に埋め込まれた宝石が光るように設計されており、
 その神秘的で厳かな美しさは見るものを圧倒します。
 また、石窟庵の前方は東海(日本海)を遠望できる景勝地である。

  石窟前方
       石窟庵入口の前方 

  1995年、石窟庵は仏国寺と共にユネスコの世界文化遺産に登録された
 韓国有数の観光スポットとなっている。

    石仏寺石窟庵 釈迦如来座像
(せきぶつじせっくつあん しゃかにょらいざぞう)
 
  入口2
      石仏寺石窟庵入口門
 
 新羅の王族で宰相であった金大成は、政治家であると同時に、きわめて優れた建築家でもあった。
 彼は現世の父母のために仏国寺を建立し、前世の父母のために石仏寺(石窟庵)を建立しようと工事をはじめた。
 751年に工事を始め、20年余りを費やしても完成を見ず、彼は774年に死亡するが、その後は国が完成させたという。

  入口
     石窟庵入口付近の構造

 とくに石窟庵は、他の国の石窟と異なり、人口の構造物で、緻密で高度な幾何学と力学に基ずいて設計されている。
 本尊を初めとする構内40躯の仏像の芸術性により、これは「宗教と科学と芸術を総合した至高の美の実現」として輝かしい位置をしめている。
 石窟庵の入口は唐尺(29,7センチ)で巾12尺の前室の奥に、半径12尺の円形のドームがつづき、
中央に堂々たる釈迦如来坐像が安置されている。  

  庵石窟
   座高3・45cm 新羅八世紀

 豊かに円熟し崇高な光を放つ尊顔。簡潔でありながら力強い衣紋、両眼は半ば閉じられ釈迦が悟りを開かれた瞬間の姿である。
 この像の規模は玄装法師(602~644)がインドのブッタガヤーの大覚寺の釈迦成道像を拝し、その規模を記録したた数値と一致することが近年明らかになった。
           月下情人
        (げっかじょうじん)

 これは愛し合う男女が、人眼をさけて深夜、合っている場面である。
 朝鮮では、長期にわたり儒教の教えを極端に拡張して、「男女7歳ニシテ席ヲ同ジクセズ」として、男女の自由な交際を禁止した。
 結婚に際しても親同士が話を決め、本人たちは結婚の日に初めて会うということも少なくなかった。
 そういう社会的環境の中で、愛し合う男女は、この絵のように交通禁止となる夜の三更(23時~1時)に家を抜け出し、約束の場所に急いだのである。

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 三日月も二人の心を知るかのように、光を落とし西に沈もうとしている。そのお陰か、男の持つ行灯に照らされて足下だけが明るく、周囲はもうろうとして土塀の上部も闇につつまれ、あばら屋だけが人目をさえぎっている。
 女性はときめく心を抑えかね、男に近ずきながら、被り物を握りしめているが、心はすでに男に傾いていることは、その靴の方向ではっきりする。行灯を持つ男も全身で愛情を現し、共に歩もうとしている。
 この画家(申潤福)が、閉鎖的な社会環境の中で、男女の愛に対して同情し、かつ肯定的なまなざしで、このような絵を好んで描いた心底には、当局の伝統的な政策に対する反抗心が積み重なっていただろう。
 当局者もこれを感じ取り、「いかがわしい絵」を描いたとして、図画省から追放したのである。その晩年についての記録はない。