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   新井白石と朝鮮通信使節との交歓

 1711年10月、第8次朝鮮通信使は江戸に到着し、浅草の宿舎・東本願寺にはいった。  
 
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       朝鮮通信使行列図1

  通信使を待ちわびていた儒者、文士らが筆談唱和を求めて次々に宿館を訪れた。

 大学頭・林復斎が編纂した「通行一覧」によれば、「かの使者來聘ごとに、必ず筆談唱和があり、天和(1682年)、正徳(1711年)の頃よりして、その事やや盛んなり」と書いている。

 木下順庵門下の7名が使館を訪れ、使臣たちと和やかに筆談唱和した。その内容は『7家唱和集』10巻に収められている。
 
 また、萩生徂徠の門人たちが使館を訪れ筆談し、『門搓騎賞』3巻を残した。

 そして、白石が独りで酒をもって使館を訪れ、終日三使(正使・副使・従事官)と筆談した。その記録が『江関筆談』である。その最初と最後の挨拶の部分を紹介する。

  まず、正使がつぎのように切り出した、
正使=筆の端にはおのずから舌があって話が通じるのに、どうして通訳を煩わす必要があろうか。
白石=謹んで雅量に従いたい。
白石は正使にたずねた、
白石=どうして煙草を吸わないのか。
正使=平生これをたしなまないからだ。
白石=古人は酒がはいる酒腸がないといったが、どうして公には煙腸がないのか。
正使=心の腸はおのずから錦であるのに、どうして煙草の煙で汚すことができようか。
一同はどっと笑った。

 その後、海外知識、中華文明の問題、日朝外交の問題、儀礼、文物の問題など話題にして筆談がつづいた。

 白石は、三使(正使、副使、従事官)を相手に質疑応答し、 知識の豊かさと儒学者としての才能を誇示したのであった。

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       朝鮮通信使行列図2

白石=今日の談笑と対話は、金石(楽器の鐘と笛)の互奏といえども、これにおよばないだろう。
正使=今日公とともに語ったことは、10年間の読書にも勝 る。どうして吟詩することがあろうか。
白石=私には10年の語も恨めしく、晩年の読書にも勝るといいたい。
白石=今日の会は、真に千載の一つの奇事である。老いたる小生はいつこの世を去るかわからない。諸侯は帰国の後東を望みながら、お互いに思い出していただければ幸いである。

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       朝鮮通信使行列図3

 白石と三使の交歓風景からは、その後に幕府と通信使の間で国書に書かれた「一字」をめぐって激しい対立が起き、通信使を窮地に陥れる事件に発展することは想像すらできなかった。

 いかなるトラブルが起きたのであろうか?次回に詳しく記したい。
                              つづく
   第8次朝鮮通信使往還
     通信使苦難の旅
 
  1711年8月、 国書の書き換え問題で、出鼻をくじかれた第8次朝鮮通信使一行は、 ソウルを発ってから3ヵ月が過ぎてようやく 対馬府中(厳原)に上陸した。

  通信使の船

 その後、江戸までの道中、先導する対馬藩と通信使のあいだで、新井白石の儀礼の変更をめぐって論争がつづいた。
 
 幕府からの儀礼変更の指示を受けた 対馬藩は、その具体的な内容を通信使に 伝えるだけでなく、通信使三使(正使・副使・従事官)がそれを実行するように説得せねばならない。
 
 従来は、通信使が客舎に輿(こし)に乗ったまま入り、将軍の使者・慰問使が客舎を訪問した場合も、3使が送迎する儀式はなかった。

 ところがこのたびは、使臣が客舎にはいるときは輿から降りなければならない。
 また将軍の使者が客舎訪問した場合は、階下に降りて送迎しなければならない。
 そればかりでなく、宴礼に座る席次が、使臣は島主と向かい合って、慰問使は使臣より上座に座るというのである。
 
 それは使臣たちにとって通信使の格下げを意味し、朝鮮の「国体」を傷つけるものであるため 断じて受け入れがたいと激しく反発し論争がつづいていたのであった。
 
  一方的に強要する 対馬の対応に 使節員たちは、激怒した。
 「今般の使行のすべての手続きは変わることなく前回(1682年)の例に準ずることをすでに決定しており、今中途で変更はありえないことである。これはまさに江戸の使者と決定することなので、汝たちは無駄口をたたく必要はない」と釘を差していた。

  瀬戸内海
       通信使の瀬戸内海航路
 
 こうして瀬戸内海航海中からの論争は、大阪上陸後に持ち越された。
  大阪では、通信使の下官、水夫など139人が残留することになる。彼らは6隻の朝鮮使船のなかですごすことになり、自由に上陸することは許されなかった。
 通信使一行の客舎は大阪西本願寺であった。

    西本願寺
      江戸時代の西本願寺画

 通信使訳官(通訳)と対馬奉行との間で儀礼の変更をめぐって厳しい交渉がつづき、通信使三使に 島主や長老も出向いて説得にあたったが埒があかなかった。その心労のため対馬藩主は病床に臥した。
 
 対馬の江戸家老・平田直右衛門は、刀を抜きちらつかせながら、幕府の方針を受け入れるよう迫った。三使は肝を冷やし、 受け入れざるを得なくなった。

  使臣は、「このことは、きわめて聞き入れ難いが、従うことにした。島主が救いを求めて懇願の悶迫の情を想い、われわれも応じざるをえない。ただこれから先また何らかの従い難い要請があるかも知れなが、決して許すことはない」と強弁した。
 
 使臣たちの受け入れを聞き、病床にあった対馬藩主は、強いて起きあがり感謝のことばを述べた。
 「私はいま救われました。三使の恩徳は死んでも忘れがたい。今後は他盧がないことを保障したい」(副使任守幹著『東搓日記』)
 
 このあと、 大阪城主・土岐頼殷が幕府の慰問使として宿舎にやってきた。使臣たちはやむえず、しぶしぶ、階段を降りて 土岐を 出迎えた。使臣たちの屈辱感と無念の思いはいかほどであっただろうか?
 
 対馬藩は、幕府の指示通りに事がはこびほっとしのであるが、新井白石と朝鮮通信使との挟間にあって、気苦労はその後もつづいた。

  通信行列1
     朝鮮通信使行列 正使輿
 
 一方の通信使の方では脅迫に屈し、「国体」を冒涜されたという責任から逃れることができなくなり、旅の足取りはいっそう重くなったと思われる。
          つづく

    雨森芳洲と 新井白石の対立

  雨森芳洲と 新井白石の二人の関係は、儒学の大家・木下順庵の同門であったことからはじまる。

   木下順庵
          木下順庵像

 二人は、朝鮮通信使の接待礼遇の改革をめぐって対立するようになる。その経過を簡単に記してみる。

 1709年、将軍・徳川綱吉が世を去り、後継者として甲府藩主・綱豊(綱吉の兄の子)が家宣と改名して、六代将軍に就任した。

 徳川家宣が、まず行ったのは悪評の高い「生類憐みの令」を廃止し、人心の一新をはかったことである。
 家宣の政治を支えたのは、木下順庵の推薦により甲府藩の侍講を務めた新井白石 (1657~1725) である。
 
   新井白石
          新井白石像

  一介の儒学者にすぎなかった白石が、将軍の侍講として幕府の実権を掌握する地位にまで出世したのであった。 (参照・朝鮮通信使32)
  白石は、六代将軍・徳川家宣、七代将軍・徳川家継(4才)の時代(7年間)、幕政改革にとりくみ、 「正徳の治」と呼ばれる一時代をもたらした。
 
 幕府は、対馬藩を通じて家宣就任を祝賀する通信使を派遣するよう 朝鮮国に 要請した。
 このとき白石は、 朝鮮通信使の接待礼遇の改革・「聘礼改変」を立案していた。

 その内容の主なものは、次の4つであった。
 1、将軍の称号を「大君」から「日本国王」と復号する。
 2、沿路での饗宴は5か所に限る。(赤間、大阪、京都、 名古屋、駿府)
 3、将軍の慰問使が訪問したとき、使臣は階段を降りて迎える。(これまでは部屋で待つ)
 4、御三家は国書伝令式、饗宴に隣席しない。

 白石は、この改革で「和平・簡素・対等」を期すると言いながら、実際には幕府の権威を高め ることに比重をおき 、通信使にたいする礼遇の格下げを意図したものであった。
 
 これを知った、対馬藩の外交担当の雨森芳洲は、白石に手紙をおくり抗議した。

     芳洲
         雨森芳洲像

 「通信使に対する豪華なもてなしを改変する案には同意するが、 先例をいきなり破って簡素化するのは非礼すぎる。 日本は朝鮮国とちがって中国の冊封下にない。また、これまで日本国王と称したこともない。それに、「日本国王」の称号は、天皇の尊号を犯すもので不敬ではないか」という内容のものであった。
 
芳洲は、白石よりはるかに朝鮮のことをよく知り、朝鮮との交隣外交の第一線で活動していた専門家である。
 
  条理を尽くした芳洲の声に、 幕府の権力者となった白石には聞く耳をもた なかった。
 
  白石は「対馬の国にいるなまくら学者にわかるはずもなく、ああだこうだなど言う」(白石自伝『折たく柴の木』)というはげしい言葉を投げ返したのであった。

 もともと二人は、順庵の門下の同輩として、きわめて近い関係にあった。白石は年齢的には芳洲より11才うえの先輩であった。それ以上に、白石は幕府の威を借りて傲慢になっていた。

 この頃の白石は、 自らが主張することに、誰が何を言って反対しても臆することなく押し通し、最後には「上様の御意」で反対意見を封じていた。

 芳洲は、将軍の側近であるといえども、傲慢な白石に対し「詭弁を弄する暴戻(ぼうるい)の儒」(『 俗儒三種』) と痛烈な批判をあびせた。
 
 その後も芳洲と白石は深刻な論争をくり広げ、 互いに譲らず 対立は最後まで解消されなかったと伝えられている。
 
  通信使に関する交渉は対馬藩を通じて行われる。対馬では、白石の改革を朝鮮側に伝えなければならない。
 
  1711年、 六代将軍・徳川家宣の就任を祝う、 第八次朝鮮通信使一行は 、 白石の「改革」を知らないまま、ソウルを出発し、釜山で対馬に渡る風を待っていた。

  倭館1
       釜山にあった倭館の風景

 そのときになって対馬から使者がやってきて、国書の宛名を「日本国大君」から「日本国王」に変更・復号してほしいと、通告してきたのであった。
 「日本国大君」の名称は、「柳川事件」(参照、朝鮮通信使)の教訓から幕府側から提案され、朝鮮側が受け入れたものであった。そして、朝鮮通信使 5次(1645年)、6次(1655年)、7次(1682年)使行において 「大君」の名称で 国書の交換が行われ恒例となっていた。
 
 通信使らは、国書の書き換えの一方的な通告に激怒し、朝廷に通知した。

 朝鮮王・粛宗は、「大君の称号を使ってもう77年も経っているにもかかわらず、思いがけず復号とは、重大なことで頑なにしりぞけねばならないので、議政府(行政の最高機関)に回して審議せよ」と命じた。

 王命にしたがって、朝鮮朝廷内で激論がたたかわされた。日本との交隣関係を維持する立場から、もともと「日本国王」名を求めたこともあり、「彼らの操りに引きずり回されてるというが、国書でも改まるべきであれば改める方がよい」との意見が出て、王がこの意見に賛成し国書が書き改められることとなった。

    2ぷさん
        現在の釜山港の風景

 こうして国書問題は解決をみたが、対馬藩は白石の「聘礼改革」の具体的な内容を朝鮮側に伝えていなかった。
 
 そのため、八次朝鮮通信使の 日本往還 は、前後12回のなかで最も苦難を強いられる旅になった。
 つづく

    雨森芳洲の国際感覚


 雨森芳洲(1668~1755)は、 江戸時代中期の日本を代表する儒学者であり、対馬藩の外交官として「誠心外交」を貫き、日朝の 善隣友好のために献身した国際人でもあった。

     芳洲
        雨森芳洲 画
 
 芳州が晩年、対馬藩主・宗義倫(よしつぐ)に提出した著作・ 『交隣提醒』(こうりんていせい) から、彼の外交における基本的な考え方と国際感覚について記してみる。(参照・朝鮮通信使9)

 芳洲は、1668年、現滋賀県長浜市高月町雨森町の医者の子として生まれた。

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     雨森芳洲庵  長浜市高月町

 1679年、12歳の頃から京都で医学を学び、18歳のとき江戸に出て儒学者・木下順庵門下に入った。
 同門の新井白石、室鳩巣、祇園南海らとともに秀才を唱われ、「文は芳洲、詩は白石」と称されるほど文章が秀逸していた。師の順庵は、芳洲を「後進の領主」と称賛したという。
 
 当時、朝鮮貿易で潤沢な財力をもつ 対馬藩は、優秀な人材を求めた 。木下順庵の推挙により芳洲は、22歳で対馬藩の真文役(朝鮮外交の文章作成、通信使接待役)となった。2年後、長崎で漢文能力向上のため中国語を学び対馬に赴任した。
 芳洲は、藩の文教をつ司るかたわら、藩主の御用人を務め、朝鮮外交の先頭にたって活躍した。

 1702年、36歳のとき初めて朝鮮の釜山へ渡り、倭館に滞在しながらハングル(朝鮮語)を学んだ。
 当時は、朝鮮の儒学者・文人たちは、漢字・漢文を重要視し、ハングルは「下等」な文字と考えていた。しかし、芳洲は「ことばを知らず如何に善隣ぞや」と進んでハングル学習にとりくみ、朝鮮語で自由自在に会話するようになったという。

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       雨森芳洲庵 展示室内

 芳洲は、朝鮮側の日本語辞典「倭語類解」の編纂に協力するとともに、日本人として初めて日朝会話集など16冊の朝鮮語入門書『交隣須知』(こうりんすち)を 著した。
 
 芳洲は、外国の言語、文化を学ぶことについて、
 「異なった文化は本質的に平等で、民族間に文化上の優劣はなく、それぞれの民族にとってかけがえのないものであると考える。そして外交にあたっては、国や民族によって風儀や嗜好も異なるので、こちらの尺度だけで相手を測ってはならず、相手の風儀がこちらとちがっているからといって、それを低く見てはいけない。相手の国の歴史、風土、考え方、風習、人情や作法などをよく理解し、お互いに尊重しあって、おつきあいすべきだ」と述べている。
 
  外国との交流で必要なことは、いかに緊密な信頼関係を築くかにあるが、芳洲はそれに加えて「異国文化への理解と尊重も重要である」と主張した。
 
 芳洲が説いた「相手をよく知り、互いの違いを認め合う」ということは、今日の「異文化理解」「多文化共生」時代に相通じるものであろう。
 
 そしてまた芳洲は、国際関係においては平等互恵を宗とし、外交の基本は「誠心」(誠意と信義)にあるとし、
 「誠心の交わりということ、人々がいうが、その多くは字義をはっきり理解していません。誠心というのは、まことの心ということであって、互いに欺かず、争わず、真実をもって交わることこそ、まことの誠心である」と 「誠心の交わり」を熱く説いた。
 
 芳洲は、このような考えに基づいて、 8次、9次朝鮮通信使に対馬藩真文役として随行し、 江戸往来の過程で使節員と意見を交換し、日朝間にあるわだかまりを払しょくするため忍耐強く努力し、 「誠心の交わり」を実践したのであった。

 芳洲は、単に対朝鮮外交だけでなく、強大国である中国との関係についても対等、平等な外交姿勢を明らかにしている。
 「国と国にははじめから優劣は存在しない、中国だからといって、すべてが優れ、他の国のすべてが劣っているわけではない。国に尊卑があるとすれば、そこに住む人、一人一人の人間の器量や、風俗の善し悪しに拠るべきである。たんに中国に生まれからと誇りにすることはまちがっているし、たとえ夷荻と呼ばれる後進国(日本)に生まれたとしても、なんらそのことを恥じる必要はない」と述べている。

  雨森碑
      雨森芳洲顕彰碑 対馬厳原

 今から300年も前に、 国と国の国家関係に大小、上下、優劣はなく、対等・平等であると 明快に 主張した芳洲の国際感覚に感動させられる。

 芳洲の「誠心の交わり」の外交思想は、国際化した現代社会においても指針となり得る先進的な国際感覚ではなかろうか。

 彼は多くの朝鮮文人と交流し、雨森東(ウ・サンドン)という朝鮮名で親しまれたという。
 倭館で交流を深めた 朝鮮人 ・玄徳閏(ヒョン・トクュン)、玄錦谷(ヒョン・クムコク)らと生涯の友人であったと伝えられている。

  雨森の墓
       雨森芳洲の墓 対馬長寿院

 1984年、芳洲の生家跡( 長浜市高月町)に設立された「東アジア交流ハウス雨森芳洲庵」の案内板に、
 「芳洲は、88歳という高齢で対馬で天寿を全うしたが、その生涯は、日朝友好の架け橋を渡した先駆者として光り輝いている」と 書いてあった。
 つづく
   富士山と夕日と雲18

 新年、2019年に入って、
 寒さが、ますます厳しくなっているが、
 晴天がつづき、天候には恵まれた
 毎日のように、
 「富士山と夕日と雲」を撮りつづけた、
 正月から10日間の画像の中から、
 気に入った10枚を選び、
 ストーリー風に編集して見ました。
 ご覧ください。
 



 バックミュージックにロシア民謡を入れてみたが、
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