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     第7次朝鮮通信使往還
      対馬における馬上才

 朝鮮通信使は、日朝間の親善友好のための外交・文化交流の使節団である。
 使節団の江戸往還は、日本と朝鮮双方の信頼を築き、両国民がお互いの文化を認識し、学問、芸術の交流の輪を広げる絶好の機会となった。
 
 朝鮮通信使の江戸往還は、その 招聘交渉から 無事に帰国の途につくまで、すべて対馬藩の責任のもとに行われた。対馬藩の負担と苦労は大変なものであったと思われる。

 1680年、徳川家将軍家綱が39歳で亡くなり、弟の綱吉が34歳で5代将軍に就任した。
 朝鮮国は、将軍綱吉就任を祝賀する第7次朝鮮通信使の派遣を 決定した。

 1682年6月、三使をはじめ473人の使節団一行は、釜山を出港し対馬府中(厳原)に到着した。
 
 通信使を出迎えた対馬の対応は従来と異なっていた。
 
 それまでは、 使節員の上陸を真心を尽くして尊敬する対応であったが、今回は上陸するや、島主・宗義真から使節員の「礼儀と規律を守り身だしなみ正すよう」の要請があった。

 それを聞いた使節団は、対馬が高圧的な態度に変わったと受けとめ「対馬は傲慢で無礼だ」と怒りを露わにして騒動となった。

 対馬藩としては、過去6回の 使節団の案内役を務めた経験と、また経済的繁栄により藩の格式が向上したことで、通信使に対しても堂々と「言うべきことを言う」自らの主張をはっきりさせたにすぎなかった。

 前回までの使節員の中には、上国人たる態度を見せるため対馬人を無視するさまざまな目にあまる無礼やトラブル・いざこざが絶えなかったのであった。

 訳官の 洪寓載は自分たちに責任があるとし、「わが一行の中で、下の輩がお触れを守らず、倭人といざこざを起こすことがあった、その責任はわが方にあるので、至極残念である」(『東搓録』)と書いている。
  正使はじめ上官らは、使節員の無礼やトラブルを起こしたことの是非を冷静に判断していたようである。

 対馬では、 対朝鮮貿易は島の死活に関わることで、 通信使一行を賓客として礼遇していたため、多少の無礼があっても言わなかったのである。

 こうした、ぎくしゃくした関係の中で、馬上才(参照・朝鮮通信使)の公演が行われた。
 
 前回までは、 馬上才は 、将軍に見せるものであり、島主に先に見せることは出来ないと拒んだが、今回は対馬の要望にこたえたのである。
 馬上才は、立乗り、乗り下り、鐙乗り、逆乗りなどの妙技がつぎつぎにくり広げられた。
 
  馬上1
   画像『大系朝鮮通信』辛基秀、仲尾宏編より引用

 島主はじめ重臣やその家族,藩士、商人、庶民ら大観衆が観覧した。馬上でくり広がられた曲芸に驚きと感嘆、拍手喝采する人々の姿が思い浮かぶ。

 馬上才の公演を通して対馬と通信使一行は、お互いの立場を理解し、友好親善の信頼関係を深めたとようである。
 
 その後も江戸往還の長い道中、案内・警護・他藩との 接待交渉等の過程で、対馬藩士と使節員の間で、大小さまざまなトラブルや論争があったことが想像される。

 通信使の任務を無事果たすことに利害が一致する対馬と使節員一行、それらのトラブルを克服しながら、対馬藩が先導する朝鮮通信使の大行列の旅がつづけられたのであろう。
      つづく

 
   東大和南公園の銀杏   

 東大和南公園の入り口付近に一本の
 銀杏(いちょう)の木が立っている。
 広い公園内で、銀杏の木はこの一本のみである。
 昨年は、この銀杏が色づきはじめてから、
 黄金色に輝き、散る頃まで、
 8枚をパラパラ画像で紹介した。
  今回は、年初からこの銀杏にこだわり、
 撮りつづけた画像の中から、
 12枚をストーリー風に編集してみた。
 ご覧ください、

   

根気強くやれば、
何かが生まれるかと頑張って編集しているが、
なかなか思うようにはいかないものである。
     朝鮮貿易の盛況・対馬の繁栄

 17世紀前半、中国大陸は明・清の交代期で、東アジアは混乱状態がつづいたが、後半になると安定をとりもどし、日朝間もこれといった特別な問題はなく平和に推移した。

  対馬1
       日朝交流の仲介の地・対馬

 東アジアの安定は、財政を交易に依存する対馬にとって、朝鮮と日本間の仲介貿易を拡大する好機となった。
 
 この時期の1657年、対馬藩主・宗義成が亡くなり、義真(よしざね1639~1702)の治世となった。
 19歳で島主となった義真は、藩政を改革し、朝鮮貿易(倭館貿易)に力を注いだ。

  宗義真
       対馬3代藩主 宗義真 
 
 対馬藩は、日朝間の外交、交易の窓口である釜山の倭館が狭くて不便であったため、以前からその移転を朝鮮側にくりかえし要望していた。
 1678年、ついに朝鮮朝廷は、要望を受け入れ豆毛浦から草梁に移転した。新しい倭館の敷地10万坪は、長崎出島(中国、オランダ貿易)の25倍の広さであった。倭館には対馬から、藩士、役人、商人、実務担当者ら常時500~1000人が滞在していたという。(参照;朝鮮通信使9)

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         釜山草梁倭館図
 
 対馬藩の朝鮮貿易(倭館貿易)には公貿易と私貿易があり、他に外交儀礼にしたがって行われる物品の贈答があった。

 公貿易は、日本から銀、銅、胡椒、丹木(染料)、煙草などを輸出された。対馬藩は、日本になかった胡椒、丹木を幕府の優遇処置により長崎から仕入れた。
 
 朝鮮側は木綿でこれを買い上げる方式で行われた。江戸時代初期、日本では木綿の生産ができなかったので朝鮮の木綿は珍重された。

 私貿易は、倭館の開市大庁(かいいちだいちょう)で、毎月3と8のつく日、つまり月8回、朝鮮商人と対馬の商人、役人、使者らとの間で個人取り引きで行われた。
 対馬藩は、この私貿易を組織的に取りくんだという。
 
 対馬の朝鮮貿易は、「人参貿易」といわれるほど朝鮮人参は珍重品であった。朝鮮人参は高麗人参とも呼ばれ、万能薬として大評判であった。
 当時の人参はすべて野生のもので、その輸入量は年によって変動があった。

  人参
        朝鮮(高麗)人参
 
 朝鮮人参は、おもに江戸で屋敷売、問屋売、小売の方法で販売されたが、大半は、座売りの方法で対馬藩による専売であった。その後京都、大阪でも販売されるようになった。
 
 人参とともに、対馬が収益をあげたのは生糸、絹であった。輸入された生糸、絹は京都河原町通三条辺りにあった対馬藩邸に運ばれた。藩邸を拠点に、生糸、絹は西陣の織物職人の手によって高級な絹織物に仕立てられ大阪、江戸の富裕層に売られた。
 
 人参、生糸、絹仕入れの代価は銀であった。対馬藩は、この輸出銀を京都で調達し、それを淀から船で大阪、瀬戸内海を軽由して対馬に運び、ついで「後銀船」という専用船で倭館に運んだ。
 
 朝鮮の商人は、倭館の大開市で生糸の代価として銀を手に入れ、燕行使(北京・清朝への朝貢使)に随行し、銀を元手に生糸、絹を仕入れていた。 
 こうして、日本で生産された大量の銀が朝鮮を経由して中国に輸出された。

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       燕行使ルート(ソウルー北京)

 倭館を拠点にして、対馬商人と朝鮮商人が京都ー対馬ー倭館(釜山)ーソウルー北京の間を、人参、生糸・絹と銀を運びながら頻繁に往来したのであった。

    P9254491[1]
     朝鮮通信使(ソウルー対馬ー江戸)
 
 このルートは、大陸を横断する絹の道・「シルクロード」と呼ばれているが、京都から対馬、釜山へ海を渡り、朝鮮半島を経て北京まで銀の道・「シルバーロード」が形成されていたとも言えるだろう。

 宗義真は、対朝鮮貿易の好況を背景に藩の政治改革を断行し、職制整備、府中(厳原)の道路、港の整備、農地整備、銀山開発など促進した。この時期、浅茅湾の奥と対馬東海岸を結ぶ水路・大船越瀬戸が初めて開削された。
 
 義真は、木下順庵門下の雨森芳洲、陶山純翁など学者を招聘し、人材養成の藩校を設置した。また対馬や宗家の歴史に関する書物を編纂するなど文教政策にもいそしんだと言う。

 3具足
   朝鮮王から贈られた三具足 宗家所蔵
 
 そして、幕府によって対馬藩は、表高2万石格から10万石格の国持大名に準じる格式で扱れるようになった。

 17世紀後半~18世紀前半、対馬藩は、釜山倭館を拠点とする朝鮮貿易によって莫大な利益を上げ繁栄した。まさに対馬の黄金時代であった。
         つづく
 
    富士山と夕日と雲14

 いつの間にか、今年も残りわずかとなった。
 ふり返ってみると、今年は猛烈に暑い日がつづいたこと、
 台風が沢山襲い、各地に甚大な被害をもたらしたことが、
 強烈な印象に残っている。
 筆者は、今年も玉川上水駅前の高層アパートから
 「富士山と夕日と雲」の写真を撮りつづけたのであるが、
 印象に残る場面が少ない。
 筆者が見逃したことが主な原因であるが、
 天候のせいにしたい気持ちも少しある。
 今年とった画像に、昨年の3枚を加え10枚を
 ストーリー風に編集して見ました。ご覧ください。



 音楽を入れてストーリー風に編集すると、動画のようだと
 評判が良いことに、筆者は気を良くしている。
 
 次回は朝鮮通信使30を予定
      洪浩然の願い
 
  洪浩然(ホン・ホヨン・1582~1657)は、書道家として江戸時代に名を残した1人である。
 洪浩然は、豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争の際、鍋島直茂(佐賀藩祖)軍に捕まり、佐賀城下に連れられてきた。
  
 浩然は、生涯帰郷が許されず、1657年、藩主、鍋島勝茂の死去に際し割腹殉死した。享年76歳であった。
  
 21世紀に入って、子孫たちが洪浩然の故郷を訪ね、洪家の後裔たちと会合するというドラマのような出来事があった。
  
 その過程を順を追って記してみる。

  智異山
     名山 智異山 晋州市北西
 
 洪浩然は、現在の慶尚南道晋州市の北西智異山の麓・山清にて、地方官吏の家系,4兄弟の3男として生まれた。
 
 1593年、豊臣秀吉侵略軍の朝鮮南端の晋州城を包囲攻撃により、朝鮮軍が敗れ、多数の朝鮮軍民が犠牲になった。洪一家の長男は四男を背負って逃げたが、二男は行方不明、三男の浩然は鍋島直茂軍に捕まり日本に連れられてきた。
 
 12歳の少年であった洪浩然は、おそらく両親の安否さえわからず、故郷を失い、自らの生命の危険を感じながら、異国での不安な生活を強いられた。
 
 しかし、佐賀藩主鍋島直茂・勝茂父子は、浩然の才能を目にとめ、武士の待遇で厚遇したと言われている。
 藩主の信頼をえた洪浩然は、数年間、京都五山で学問を修め、漢詩と書の才能を開花させた。そして俸禄100石と学問科5人扶持を拝領されることになった。
 
 浩然は、藩主・鍋島勝茂の右筆、つまり藩主の書状を代筆する書記官、書家、儒学者として活躍した。 

  扁額2
     洪浩然書 頂法寺扁額 京都市
 
 晩年、祖国への帰国を願い出て許しをもらい、帰国の途についたが船に乗る寸前、藩主・勝茂の「浩然がいなくなるとさみしく心苦しい」との言葉がとどき、唐津から呼び戻どされた。
 
 その後浩然は、俸禄を自ら返上し白米五十俵のみの拝領を願い出た。武士階級よりも、町人として書家の道を選んだという。
 
 浩然の書とされる多くの漢詩や筆書が残され、京都頂法寺、福岡県英彦山神宮、佐賀県徳善寺,弥念寺等の扁額に今でもそれを見ることができる。
 浩然の書体は独特で、力強く大きくなる独特の書風から「こぶ浩然」と呼ばれたという。

 1657年、勝茂が江戸で没した。その知らせを聞いた浩然は、菩提寺の阿弥陀寺で切腹殉死し、異国人ながら立派な葉隠武士(佐賀藩の武士道)として称讃されたという。

  阿弥陀寺
    洪浩然の墓 阿弥陀寺 佐賀市

 殉死の際、浩然は子の洪安實(六郎兵衛)に「忍 忍則心之宝 不忍身之殃」(忍は心の宝、忍ばざるは身のわざわい)の遺書を残した。
 
 囚われてきた不遇、別れた家族への思い、望郷の念など苦しみ忍従を強いられた境遇を「忍」の一字に込めたものと思われる。

 それにしても、親兄弟から引き離され、故郷から強引に連れられてきた浩然が、藩主の恩義に報いるためとはいえ、なぜ殉死しなければならなかったのか?
 それを知る術はない。
 
 筆者の思うところ、浩然にとって藩主は恩人であり、またそれ以上に唯一の拠りどころであった。拠りどころを失った孤独感・絶望感にさいなまれた浩然は、少年のころ過した故郷の父母兄弟を思い出し望郷の念に駈られた。高齢となった自分は、もはや故国に帰ることは難しい。しかしながら、せめて洪家の存続と子孫らは必ずや故郷に帰して欲しいと、懇切な願いが秘められた殉死であったのではなかろうか?

 洪浩然の死後、彼の子孫は代々洪家の姓を守りつづけた。

 洪家第12代当主洪悦郎(よ しろう)は、東京大学を卒業後、東大助教授、北海道大学教授、日本建築学会副会長を務めた。紫綬褒章、勲二等瑞宝章を授与された。
 2009年、悦郎は、85歳で亡くなり洪家の代は途切れることになった。悦郎の娘二人は他家へ嫁いでいた。そのため悦郎は生前、代々受け継いで きた屏風、書などの遺品を佐賀県立名護屋城博物館 に寄贈したという。
 
 名護屋城博物館と交流のある韓国晋州博物館 の調査により、浩然の兄弟の子孫が現在も山清で暮 らしていることが明らかになった。そ こには「南陽洪氏茂朱府使公花樹会」と称する親族の集 まりが存在していた。

 2014年、日本で洪浩 然の子孫・縁者30名ほどが集まり、「洪 浩然に連なる会」が発足した。会の主な目的は阿弥陀寺の墓の維持と、ばらばらだった子孫間の親睦を図ることであった。

 「洪浩然に連なる会」と「南陽洪氏茂朱府使公花樹会」と交流の仲介の役割を果たしたのは、佐賀県立名護屋城博物館と韓国晋州博物館の職員たちの緻密な追跡調査と努力であった。

 奈良学園大学学長・辻毅一郎氏は「洪浩然に連なる会」のメンバーの一人である。氏の母の実家の父(毅一郎の祖父)は第11代洪純 一、その長男の洪悦郎(毅一郎氏の叔父)が第12代の当主にあたる。

 辻毅一郎氏は、日韓の洪家親族たちの交流の経過を次のように述べている。

 「連なる会の活動の一つはこの南陽洪氏との交流で ある。先ずは日本側が晋州博物館と山清を訪問、翌 年韓国側が来日して名護屋城博物館を訪問、そして 平成26年4月(2016年)には筆者も含め連なる会の会員10数 人が韓国を訪問した。先方は20数人がバスを仕立 てて釜山空港まで出迎え、我々一行は大変な歓迎を 受けた。旅のハイライトは、南陽洪氏が山清に新た に建設した浩然の記念碑の除幕式に参列することで あった。この碑には筆を持った浩然の絵と、くだん の揮毫とが彫られている。南陽洪氏から 見ると、先祖が連行されて420年、ようやく里帰り を果たした、ということになるのである」『生産と技術』第67巻 第2号(2015)

 韓国の地元紙は「南北離散家族の再会のように激しい抱擁はなかったが、静謐かつ感動に満ちた家族の出会い…」などと報じた。
 
 韓国では、洪 浩然を主人公とした物語の本が出版され、ビデオも制作されたという。

 2017年、「没後350年 よみがえる洪浩然の書」が、佐賀県立博物館・美術館で開催された。

  佐賀市
     洪浩然書 弥稔寺扁額 佐賀市
 
 洪浩然の故郷に帰りたいという切実な願いは、生涯叶えられなかった。
 420年後の21世紀・現代に至って、子孫らが祖国に帰り、故郷の人びとと対面をはたし、また朝鮮と日本を自由に往来するという奇跡的な出来事が起きたのである。
 まさに大長編ドラマを見ているような現実・事実である。

  阿弥陀寺
     洪浩然が眠る阿弥陀寺 佐賀市

 1人の人間の一生は短い、420年はとてつもない長い歳月を費やしたが、ようやく洪浩然は安らか眠ることが出来るようになったであろう!
 
 「洪浩然の願い」の勉強は、改めて友好親善の文化交流、人の交流の大切さを再認識することになった。